私が二十二歳になる数日前

母は、乳ガンから発起したガンだらけの身体は

肺に留まり息も引き取った。

モルフィネを打たれ痛みが治まったと同時に

涙をこぼし、ささやかに笑った。

その時、魂が抜けた様子だった。

私はこれからの痛みに泣いた。

今考えると、寂しさに泣いていた。

寂しさが心の痛みだったように思う。

思い出すだけで泣いた。

それでも生きている以上、生活していく。

時間が私を助けてくれた。

同じ日なんてありえない。

前進する意義と生きる愉しさ。

寂しさの涙は、いつしか乾いていった。

mamma e figlio


私はなかなか妊娠しなかった。

不妊相談所のようなところで相談し

(フィレンツェの県立病院Careggiカレッジ内の

Riproduzione Umaniリプロドゥッツィオーネ ウマーニというところ。)

いろいろ検査をすることになった。

調べると、昨年と9年前の手術でも取り除いた

やはり腫瘍が邪魔していた。

卵巣嚢腫というものであった。

卵巣が左右あるうちの右側にあった。

手術をして除去してから妊娠を考えようと

道のりは長くなった。

腫瘍は、さほど大きくなかったので

ちっとも緊急扱いのない手術の予約をし

初めての手術に緊張しながら

首を長くして待っていた。

時間だけが過ぎているような。

妊娠には、少し焦りだす年頃に突入していた。


ある時、なかなか生理がこないから

市販の妊娠検査薬で調べてみると

ポジティブ(=陽性)。

病院に行って、本格的に検査をしてもらって

浮かれて、母子健康手帳を頂いた日

手術の電話を受け取った。


妊娠するための手術だったので、もう必要ない。

浮かれた私はそう思い込みっぱなしだったし

誰も定期検査をしなさいと忠告することもなく。

だから、出産して二年後に痛い思いをそこでする。

ecco


噂通り、つわりを迎え

タバコを止めた。

これだけは自慢に想えること

夫も、タバコを一緒に止めた。

今でも吸うことはない。

人生の学びの一つであろう。


あの時ほど未来が楽しみで仕方がない

という感覚はない。

それでも日常での問題は次から次へと起こり

次から次へと解決していく。

つわりだからとウダウダしてられない。

同じ日は決してない。


当時、不動産も購入し

現在のヴィンチの家の建て直しで

出来の悪い設計士

(Geometraジェオーメートラ、人に依るけどね)

と日々連絡し合っていた。

そのことについては、追々語ろうと思う。


数ヶ月の妊娠期間、順調だった。

国の保険機関で行われる産婦人科ではなく

プライベートの産婦人科の医師について診てもらっていた。

Cielo in Dicembre


四ヶ月目も終わり頃

そのプライベートの産婦人科で定期健診を行った。

医師は、あることを発見した。


胎児の頭の穴がフツーより大きい

というのである。

で?どうなっちゃうの??


胎児の頭の穴は、産まれてからも開いてるし

それがだんだん塞がってくるものなんだが

このまま塞がらず、穴が大きいままだと

知能障害を持った子が生まれてくる

というのである。


私は横になってエコー検査をしている状態。

下から医師を見上げていた。

医師は、下を見るより

なんだか近くにいた夫に向かって話していたような。


イタリアは、障害者に対して厳しい国だから・・・


中絶するには5ヶ月までは法律で許されているから・・・


それ以降だとお金もかかるしイタリアではできない・・・


というのである。

医師は、人工妊娠中絶を勧めているのである。


涙が溢れて止まらなかった。


医師は、他の診療所宛へ手紙を書き

もう一度エコー検査をし診察することの手配をしてもらい

産婦人科を後にした。


それから何日泣いたであろう。

夜も泣いた。

涙は乾いてくれなかった。

涙の海ができそうであった。


四ヶ月の終わりって、もう胎児の動きがわかる。

私の体の中で、命が誕生している。

あんなに望みに望んだ命を、私が殺せというのだ。


私の家族は次々と自ら魂となっていった。

今度は、私が命を殺す?


ありえない。

Vola


私は決めた。

産む。


知能障害でもこの世に誕生して

小さな幸せでもいいから知って欲しい。

同じ日なんてない。

嫌なこともあれば嬉しいことだってある。

知能障害だって生まれて生きる権利はある。

嫌なことを知って嬉しいことを知る権利はある。



私の母は、養護学校の教育者であった。

教頭になり信頼や講演で注目を集めていた頃

この世を去り、期待は続くことなく終わってしまった。

私が青春の頃、彼女の活躍はほとんど後で知ることになるが

少女の頃は、養護学校でイベントがあると

一緒に参加していた。

知能障害で手古摺らせることもあるが

こうやって団体で温かく見守って

一緒に笑える、一緒に学べる

彼らだって好きで障害者やってるんじゃない。


どんな状態でも

同じように扱う、平等でいる

っていうことを一番に学んだ。


可哀想だからと、可哀想に扱うより

平等に扱う。

それは、障害の世界だけでなく

どこの世界においても言えるのではないかと想う。


そんなことを、数日考えた。

産むと決めた途端、涙の波が引いた。


赤く腫れているだろう私を鏡で見た。

鏡に映る私の顔は変わっていた。

その時から私の目は、二重になった。

どんなに擦っても、時間が経っても

二重となった目は今も続く。

母になると決心した顔なのかもしれない。

mamma e figlio nell' ex appartamento

医師の書いた手紙を持って

国の保険機関のエコー検査に行った。

「ちょっと大きいけど、男の子の場合は大抵大きいの。

ほとんどは小さくなっていくから。

毎月、エコーをしながら様子を見ていきましょう。」

母体と胎児、二人でトンネルのCTスキャンも通ったっけ。


その問題以外は、母体も胎児も順調であった。

お腹がはち切れんばかりとなった予定通りの頃

破水して病院へ行き

長い長い分娩室にてやっとこさ産まれてきた。

なんと、プワ~とあくびと伸びをしながら産まれてきた。


その後も頭の穴の検査をしていった。

しかし、異常は見つからず

今では穴どころか石頭。

至って元気にフツーに成長し

今や十一歳の少年。


どうしてあの産婦人科の医師は、あんなことを言ったのか。

Italo-Giapponese


命を授かること、平等に生きる権利を再び学んだことは

このような過程があったからであろう。

人が生まれる、人が生きる人生とは

学ぶために生まれ生きるのだろう。



*************



今日の二月二十二日が、少年の誕生日。

十一年間、病気をすることなく飛び跳ねている。

今日は少年の大好物を食べさせてあげようと思う。

少年のリクエストは

Bisteccaビステッカ(Tボーンステーキ)

生卵ご飯と

プリン!

大好きなものは、毎年同じだ。

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