≪≪≪ 写真だけ前回の記事の続きです ≫≫≫
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記憶を甦らせてもやはりあまり記憶にない。
母と何時間もかけて話した記憶。
しかし、東京近郊で一人暮らしをしていた時には
母に日々電話をし、何かと相談していた。
あの頃、私の中の唯一の大人は
母だけであった。
私のことを一番に想って相談にのり
私のことを信じて生きていた。
そんな風に私もなるのか?
そんな風に子もなるのか?
日々の生活の中で
話す時間てどのくらいあるだろう。
じっくり話す時間てあまりない。
少年は、帰宅してもなんだかんだと
ゆっくり話すことはない。
私と夫は、アペリ中、報告し合うことが多い。
ケンカになっても言い合う。
そんなんで、食事の支度が遅くなる時もある。(!)
食事中、家族の一日を話そうと提案するが
食事の話題になったり、少年の食べ方のしつけで
唯一の家族団欒の時間がおじゃんとなり
意見を交換し合うお行儀の良い会話ができない。
食後は各々に過ごすことが多い。
友人が来るとあんなに何時間もおしゃべりして食事をするのに
家族だけだと・・・なんかまとまらない。
少年とは、横になったときに話すことがある。
「今日はおしゃべりして寝よう」
少年も嬉しそうに床に就きたがる。
そこで、マキちゃんの頃のはなし
マキチの頃のはなし
マキさんの今のはなしをする。
「マキチのはなしして~」
いいよー。
話している内に、私が寝てしまう。
「で、それで?マキチどうなったの??」
zzzzzzzz。
散歩をしている時も少年と話すチャンスな時間。
でも世代が違うから、同じペースではもう歩かない。
歩いておしゃべりできた時間が貴重だったことを思い出す。
そういう訳で、一瞬の隙を狙って
話すことが多くなってしまった。
大きくなるにつれて、現実的な話。
私の経験談より、一緒に未来を触れるような
選択していく話が増えてきたように思う。
少年は、イタリアの小学五年生。
今年の九月には、十一歳で中学生。
小学入学申し込みの時もそうだったが
中学入学申し込みも
国立だとオンライン申請。
再び、選択項目の中に
Religioneレリジォーネ(宗教)を取るか取らないか
という項目がある。
小学の入学相談で保護者会があった。
宗教の授業を選択しないと
どうなるのか、放ったらかしなのか
猛烈に抗議していた無宗教の保護者がいた。
私も夫も無宗教だけど
子には、宗教の授業を選択してあげた。
学校側の返事は
イタリアはカトリックだからカトリックを一番に説明するけれど
カトリック自体の教えは教会で学ぶ、という。
進めば、世界の重要な宗教を学んでいく、と言っていた。
イタリアへ旅行に来て何を見る? -教会。
日本へ行って何を見る? -寺や神社。
例えばトルコに行ったら何を見る? -モスク。
などのように、世界の歴史は全て宗教から始まっている
といっても過言ではない。
歴史を学ぶことは、ある意味宗教を学ぶこと。
国の文化を知ることは
宗教を知っていないとおもしろくない。
これから大きくなって世界に興味が沸いたとき
宗教の知識があるだけでも
視野が広がるのではないかと思う。
今、イスラエルのユダヤ教について学んでいるそうだ。
歴史と宗教は繋がっているでしょ?
うん。
ボク、宗教の授業とるよ。
隙間な時間のおしゃべりでも
少年の理解力は、やはり成長している。
もっともっと良い子になって欲しいけど
ま、いっか。
一緒に未来を触れていこう。
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『時間』
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