大地の住人 ヴィンチの丘で

地球と体に優しいコト ~イタリアから~

フィレンツェの端っこレオナルド・ダ・ヴィンチのふるさとヴィンチの丘に在住。 大地の自然たちと向き合って地球と体に優しい様々なコト、発見・提案・発信!

カテゴリ: 思い出 Ricordo

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私にはたくさんの友がいる。
会わないけれど、心は繋がっている。
会わないけれど、会ったときはまるで
昨日もしくは一週間ぐらいしか経っていない
そんな気持ちで久しぶりなのに
久しぶりに感じない。

来月30歳になるという
シチリアからトスカーナに引っ越して3ヶ月
パレルモ近郊ど田舎育ちのシングル女子と
仕事をした。

今の若い子たちは、人種差別があまりない。
きっと学校では普通に
様々な人種が通っていたに違いない。

だから、へたによそよそしい大人より
若い子たちの方が私は
話しやすかったりする。

話をしているとやっぱり若く
彼女たちの今とこれからを想像して
ワクワクするし楽しくなる。

とりあえず人生のアドバイスをするが
ひとそれぞれの運命を追いながらの人生だ
アドバイスなんかじゃない
結局は、私をなんとなく見て知ってもらって
印象に残ってくれたら嬉しいとおもう。

友だちがまだいない、ということだった。

だから、友だちの話をした。

友だちって
会わなくても友だちでいられることが
友だちだよ。

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ある食品会社の仕事が一段落したが
また近々一緒に仕事がしたい
ということだった。

私はあまりグループに馴染めてないかな
と、思っていたけど
自分をもっていておどおどしてないところは
誰かがやっぱりみつけてくれていた。

彼女たちは、とにかくおしゃべりで
私とは正反対だ。
私だって話すときは話すけれど
私は、時を待つ。急がない。
なんせ、仕事中ですもの。

出荷が終わって穏やかな時間、そうやって
シチリアシングル女子と語り合ったり
はたまた長年のベテランと話す間があった。

性格の明るいベテランは、私たちの会話に
「何話してたの~」私も入れて~
みたいに入ってきた。

ベテランなのに
ピリピリしてないところが好き。
同じ歳で
一人息子がいるところなんかも同じ。

息子さんは18歳で
高校5年生で最後の年だ。

ベテランの息子さんと一度だけ
ちらっとお会いしたことがある。
素直そうな青年だ。
あの時確かに
わーと私を見ていたのは覚えている。

帰宅後、息子さんはお母さんに
「あの人と一緒に仕事してるの?」
と聞いてきたそうだ。
「そうだよ。」
「へぇ、かわいい人だね!」www
「あの方ね、普段話さないんだけど
話すときは、正しいこと言うのよ。」
...なんていう会話をしてくれてたのだ。
嬉しい!

という話をしながら、私が口をあけるときは
人が話を聞いてくれるときだよ
という話をした。
「確かに、あなたは人の話よく聞いてる。」

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静かに働く私になったのは
今にはじまったことではない。

イタリア語ができるできない
もあるかもしれないけれど

誰もいない大地でブドウやオリーブ
空や虫と共にした空間の心地よさを
知ったからかもしれない。

ううん、それだけじゃない。
もともとは、日本で体験したことだ。

学生を卒業して、初めて入社した
横浜の木工会社の影響が大きい。

その木工会社には
聴覚障害者が数人働いていた。

彼らは、聴こえないし
自分の声が聴こえないから
声にして話さない。

彼らと話すときは
私も声にして話さなかった。
目だけでもしくはジェスチャーだけで
遠くからも合図し合ったり
あるときは笑い合ったりもした。

目が合うと、いつもにっこりしてくれた。

怒ることもあるだろう
でも怒鳴ることはできない。

ちょっと通じ合えないとき
寂しそうな顔をして諦める様子だった。

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私は当時21歳だった。

私は、彼らと一緒に仕事ができたことが
一生の宝となった。

言葉を大切にしようとおもった。

どんな人とでも言葉と目で会話をしよう
とおもった。

話を聞こうとおもった。

考えようとおもった。

答えようとおもった。

にっこりしようとおもった。

静かに生きようとおもった。

全部表現できなくたって
普段の姿勢で表現できたらいいのではないか
とおもった。

きっと彼らは
私がこんなにも刺さった出会いだとは
思ってもいないかもしれない。

私は、わざわざ出会う人ごとに
この体験を語ろうとはおもわない。

私は、彼らのような姿勢と私にできること
両方を表現できたらとおもいながら
個人や団体と接しているのだ。

それと
私は、今この仕事のやり方で生活をする
と決めた意志が、どんな環境でも
おどおどさせないのかもしれない。

それと
人生の経験を積んできた
年齢というのもあるのかな。

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息子関係の話をしているとき
未成年の思春期時代って
なんにも怖くなくって
未来のことなんかちっとも想像できなくって
今が楽しくって、親が守ってくれてて
先進国の人だったらみんなそうだとおもう。

ある人は、あの時に戻りたいと言う。
ある時私も
同じことを言っていたような気がする。

でも今は、戻りたいとはもうおもわない。
うっとり思い出して楽しむのがいいな。
だって
こんな大変な人生がまっているんですもの。

戻らない代わりに
一日一日を大切にしようとおもった。

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今年は、ブドウの収穫が手伝えなかった。

収穫前に摘みに行ったブドウたちは
元気なヤツとそうでないヤツがいた。

変な気候だったけれども
がんばってるヤツはすぐわかる。
味を濃厚にして、輝いていた。

彼女たちをみて、また勇気がでた。




今日のTrailer





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そう、きっと最後だろう家族旅行。
そう、私は最後にしたい家族旅行。

いや、べつに最後じゃなくてもいいけど
私がオーガナイズする家族旅行は懲り懲りだ。
黙ってくっついて行くならそれでいい。

何度もため息をついて
何度も怒って
ずっとイラついて
で、挙げ句の果てにひとりはしゃいで
写真を撮っている間に私は迷子になった。。

やつらは、いつもお腹が空いて
喉が乾いて、先に進まない。

やつらは、どこに向かっているのかもわからない。
脳みそ空っぽ状態なのに
どこかに行きたいんだと。

いつも意見はバラバラでも
着いた先ではわぉと感嘆し
食べて飲んでるときは静かで至福なのだ。

ムカつくけれど、開き直って考えてみれば
家族全員のタイミングなんてあわない。

息子の16歳は今年だけ
わかっちゃいるけど来年は17歳
14歳も15歳ももう過ぎちゃって
もう戻ってこない。

一年一年の思春期青春期の刺激的なこの時期に
なんか思い出つくりをさせてあげようと
ほんの少しの...いやいやほぼ90%ぐらい占めている
知らずと持ちまえている母心は
涙を堪えながら歯を食いしばりながら
よくわかってない学校のプログラムが終了する頃
思春期青少年の態度や様子をみて
出発一週間前に予約をしはじめた。

それでも本当にこんな大金を叩いて
家族で旅行なんかしていいものか
まだまだ疑問が体の隅々にあった。
頭の隅々ではなく体なのだ。
急に大丈夫なのか?と不安になって
イライラうろついた。

ふつう、家族旅行って楽しみにするはずだろうに
なんでこんなにイライラすんだよ
全部お前らのせいだ!と
イライラがグルグルした。

思い起こせば、私の思春期青少年時代
親と旅行なんて考えたこともなかった。
思春期が終わっても一緒に温泉に行くことすら
誘われても私は望まなかった。

高校時代の夏休みはずっと
ひとりショッピングのためにアルバイトをした。

海にくりだすようになったのは
高卒で就職した友が即行運転免許をとって
車でドライブするようになってからだ。
それまで海にちっとも興味がなかったとおもう。

イタリアは...というかヨーロッパは
きっとアメリカの方も、夏休みが3ヶ月ぐらいあって
バカンスが文化だから
バカンス文化のない日本育ちには
何年経っても申し訳ない気持ちになっちゃうのだ。

旅行自体、一心を決めて行く感じだし
毎年毎年、習慣や伝統みたいに行くものではない
と、未だに体にしみついているのである。

一心を決めて旅行づくめの二十代
それはそれは旅行しまくった。
バックパッカーで何ヵ月もヨーロッパをまわったり
夫と出会った頃も年に二回は何週間も
海外に旅行をしていた。

息子が生まれてから、プツッと
フリーダムな海外旅行をしなくなった。

息子にも散々言ってきた。
ひとりか友だちと自分が行きたいところに
自分でお金をためて自分で計画して行ってこい、と。

「うんん、ボクはお母さんとお父さんと行きたい。」

きっと自分の想像もつかない将来に
自信がないのだろう。

そういわれてみれば
子どもが親と行きたいと思う私とは
反対の気持ちも大切なんじゃないか
今後、親とはもう旅行なんて...と思う前に
家族との思い出つくりもアリ
かなと思い始めて決行したのである。

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思春期青少年はイタリア国内のプーリア州の海を
想像していたのだが、16歳の思春期青少年が
親と海に行くのはなんかおかしい...
親と川の字でビーチに寝転んでるのはおかしい...
大金を叩いて、ゴロゴロしてるのはおかしい...
といちいち、プーリアの素敵な海の写真を
SNSで見て想像するたびに疑問が沸き起こり
家族みんなが満喫できそうなところを
隊長は独断でバルセロナに決めたのだった。

バルセロナには、私は三回目だ。
一回目は28年前に日本の友と
フィレンツェで待ち合わせて
フィレンツェから長距離バスで
バルセロナへ向かった。

13時間かかった記憶がある。
途中、ジプシーみたいな人たちが乗ってきて
ちょっと怖かった記憶もある。

友は時差ボケだったのかずーっと
寝てたのもよく覚えてる。
私は友を守るように起きてた感もある。

二回目は、夫と新車で南欧横断の旅だ。
荷台が広く天上も高い車だったので
何度も車泊したヒッピー旅行。

合計で5000km以上の旅だった。
南仏行って、バルセロナよって
アンダルシア方面走って
ポルトガルのリスボンに行ったんだ。

そのときポルトガルには行ったことなかったけど
南仏&スペインは、私はすでに友たちと旅をしてて
大切な人に見せたいと思った
再遊の旅行だった。

そしてこの三回目は
夫に思ったことと同じだ。
もうひとりの家族に
私がもしかしたら一番好きな街
夫も何度でも行きたい国
そして、思春期青少年は学校の選択で
スペイン語を勉強してて
でももうちょっと勉強してくださいと
学校から忠告されていたこともあって
外国語勉強するのって興味が沸かないと
積極的に勉強できないのは
私が一番よくわかっている。
バルセロナだったら
海もあって、街も楽しい
ここしかない!と隊長はおもったのだ。

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今やネットでだいたいの情報はわかる。
あの頃はとにかくガイドブックだったよなぁ。

去年シチリア旅行で
夜行列車と長距離バスの旅を教えた。
今年は格安飛行機だ。

私も案外格安飛行機で旅をするのは初めてで
しかもイタリアを出国することは
日本に帰国する以外なかったので
予約の時点で緊張しまくった。

とにかく家族三人だから飛行機は節約。
各自リュックで簡単に出発。
預ける荷物がないと
オンラインチェックインであの長蛇の列がスルー。
三人でキョロキョロしたもんだ。

出発前、あるきっかけで
夫の紙の身分証明書がボロボロだと
市役所で言われ、本当だったら
次の更新はデジタル化したカードの発行でないと
いけないのだが、出発日が近いということで
また紙の身分証明書を即日発行。

思春期青少年のデジタル身分証明書CIEも
EUに行けるのかネットで確認。
てか、ヤツは、紛失してないか
ぎゃんぎゃんと隊長は取り締まる。

私は、ひとりパスポート持参。
で、私だけボーディングの時パスポートチェック。

席は仲良く三人席じゃなくて
格安にランダムに座ろう!と
それも案外ワクワクしてたのに
オンラインチェックインが一番だったのか
三人揃って仲良し席。

フライトは、Vueling航空だったのだけど
途中、飲食の販売がはじまって
食べてる人と食べてない人がいて
なんか不公平感。
前の若いアジアン女子がイタリア版カップヌードル
を購入してすすってるのをながめながら
思春期青少年は唾を飲み込み我慢w

何度でも飛行機の発着は緊張。
でも真ん中に座っていた隊長は
家族の男子の腕を掴み
家族揃ってるなら、まっいっか
なんていう余裕な気分になるのがフシギだった。

私たちは、バルセロナEl Prat空港に到着した。

ネットでいろいろ調べてきたけど
やっぱりツーリストインフォメーションオフィス
に行って、いろいろ聞いてみよう。

街までの行き方を質問。
ネットでは、バスとかメトロとか。

さすが現地情報、メトロの一部が工事をしていて
よくわかんない観光客には申し訳ないんだけど
工事の部分は一旦外に出てバスで移動するという
超面倒なことになってる、ということを知り
滞在先のオーナーと待ち合わせ時間もあるから
なにしろ三人だし、タクシーで
滞在先へ移動することに。

思春期青少年にタクシーの乗り方を教える。
海外では、情報済みの見積りを必ず聞いておこう。
観光客はなにしろ騙されがちだからね
顔はアジアンだし。

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私たちの宿泊先は、なんとヨット船舶。
イタリア語ではBarcaと呼ばれているが
ヨットとかボートと日本語は訳すのであろうか。

なにしろ出発の一週間前に
予約することになったのだから
飛行機だって宿泊先だって
理想な金額の物件はない。

このヨット船舶は
ベットルームが二つあったこと
トイレがとりあえず小便はできること
Wifi完備であること
シャワー設備が24Hであること
ということでbooking.comで
即決定したところであった。

主はアルゼンチン人。
英語かスペイン語どっちがいい?の質問に
頼るは思春期青少年、スペイン語と答える。
おぉ、スペイン語か。

アルゼンチンの主は母国語なので有難い
ペラペラ喋りだした。

思春期青少年はわかってんのかわかってないのか
わかんないけど、わかった?!と脅せば
イタリア語で答えてくれるし
勉強してなくたってイタリア語がわかれば
なんとなーくわかるスペイン語だ。
夫も私もパーツパーツわかるから
それを繋げていけば会話が成立していた。

ここのヨットハーバーのヤードに入るのには
カードキーをさして入る。
だから安心!だそうで
ヨットに鍵はない。
確かに、出掛けるときは貴重品を持っていくので
私たちの衣類しかない。

ワクワクしながら
狭くて動きにくいヨット内を観察し
夕飯を食べに近くを歩くことにした。

バルセロナの中心から離れた
Port Formというハーバーの近郊は
近代的であまりバルセロナに来た気がしない。
千葉の幕張の雰囲気さえも覚えた。

ビーチもあるけどショッピングセンターもある。
日本だったら...いやきっとイタリアだって
通り沿いに飲食店が軒を並ばせるだろうに
ちっともない。

仕方ない、ショッピングセンターの
それでもスペインらしいところで
食べることにした。

明日は、隊長が選んだバルセロナ探索第一日目
ガウディコースだ。
早く寝よう。
だけど、ハーバーのパブの騒音と蚊と蒸し暑さと
状況の変化で、なんとなく眠れず
何度となく家族で鉢合わせた夜だった。

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今日の一曲。




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私は、トルコに二回も行ったことがある。

イスラムとヨーロッパ、大昔と現代
オスマントルコなどの歴史と、民族やシリア難民
様々な国境に挟まれた中、独特な文化
なんかごっちゃまぜな国のイメージが
今、ある。

当時は、イスラム教一色のイメージ
イスタンブール全部興味津々
カッパドッキアなどの自然
いろんな工芸に興味があって
友(フィレンツェシスターズ)と
第一回目のトルコの旅に出たのだ。

日本やヨーロッパとはまたひと味違う
でもイスラム教100%でもないゆるさ
貧しいのか中堅なのかよくわからない風習
なんかとってもオープンでWelcomeなところ
そんなあいまいなところが
なんとなく先進国と似ている風で親近感があるのだった。

二回目のアドベンチャーな一人旅は
その親近感文化をもつ出会った人に再会したい想いと
もっともっとトルコを旅したい想いが強くなったから
また行ったのである。

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今回のこの大地震情報を聞いたとき
やっぱり私の中でいろいろよぎった。
お昼を終えた同僚が教えてくれた。
「震源地はどこ?」
「シリアの近くらしい。」

シリアの近く...
当時フィルムで写真を撮っていたアルバムを引っ張りだした。
アルバムに記してある土地名を細目にしながら(老眼)
写真をながめてみると
なんとなくの記憶がよみがえってきたのだった。
その時のある土地のエピゾードを紹介しようとおもう。

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私は、ただ単にこの円錐形の屋根
トゥルッリ型の建築物に興味があったはずだ。

イタリアでは、プーリア州にある
石が重なっている(だけ!
それをイタリア語でpietra a seccoと呼ぶ)
Trulliトゥルッリ型の屋根の家が並ぶ
Alberobelloアルベロベッロなんかが有名だ。

私は、もちろんそこも歩いているし
屋根に座って笑っている写真もある。
なんで屋根に上れたかは記憶にない。
1996年の話だ。

それだけの好奇心だけで
シリアの内戦がその頃からあった
シリア難民の多い危険地域に知ってても行ったのだった。

トルコの都会に住む親近感系トルコ人たちは
私がなんでそんなとこに行くのか不思議そうだった。

地震前までは、そしてコロナ前までは
ハッラーンという村は観光客がいっぱい来ていただろう。

今やネットで調べると、いっぱい出てくる。
当時はネットなんぞないから
地球の歩き方やミシェランガイド
あとは現地でインフォメーションオフィスで知るかなんかだ。

私はここで土地の歴史などを語ろうなどとは思わない。
歴史や土地の特徴や詳しいことは、できるものなら
本職でやられている方のネットを参考にしてほしい。

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私がHarranハッラーンという村を訪れたのは
1997年の12月だった。

ハッラーン村へはSanliurfaシャンリウルファという街から
48km(google map調べ)離れたところにある。
トルコはほとんどバス移動だから
そこへも当然バス移動のはずだ。
それしか考えられない。

ハッラーン村はガランとしていた。
写真でもわかるように
広大な土地にポツンとあるような感じだ。

もともとはシリアの土地だったそうなので
シリア人が住んでいたそうだ。

話によると昔も今もトルコとシリアは
仲が悪いそうなので
トルコに住むシリア人が孤立してしまう様子は
被災地情報でもニュースになっていた。

私は、人は人、同じ人間だと思っているので
人に対しての国境はないと信じているけれど
それぞれの想いや文化や歴史があるのだろうから
仕方がない、特に深入りすることはない。

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ハッラーンは、今ネット(wikipedia)で調べてみると
とても歴史のある土地で
古代メソポタミア文明の頃盛んだったそうだ。

その私に興味を持たせたトゥルッリ型(ドーム型とも)を
ビーハイブ ハウス (蜂の巣箱状住居) と呼ぶそうだ。

この土壁でドーム型とは
灼熱の土地の住居には最適なんだそうだ。

しかし、その、ここに住んでいたシリア人たちは
シャンリウルファの街に移住し
現在ハッラーンは観光地として残っているそうだ。

私が訪れた時のこのハッラーン在住シリア人家族の出会いは
とーっても貴重な出会いだったのだと
思い返したり今調べていく中でわかってきたのだ。

トルコとシリアが仲が悪くたって
どちらも日本人の私には優しかった。

言葉が通じなくたって
興味をもったこと
一生懸命コミュニケーションをしようとする姿勢
表情
オーラでいろいろわかる。

どうやら私を歓迎している理由は
家族の写真を撮ってほしい!ということだった。

土壁の家に住んでて、一見貧しいんだけど
心は本当に豊かな家族だった。

子どもたちが嬉しそうだった。
だって、お父さんが嬉しそうにしてるんだもん。

私は、貧しそうなところに住んでいる人の生き方を知りたかった。
豊かな国の幸せと土壁の家に住む家族の幸せは違う。

物が無くたって生きていける強さ
当時私の旅のテーマはそういうところにもあった。

その土地で生まれるその土地に合った住居もそうだけど
生活するための道具とか工芸なんかに興味があった。

当時私は二十代真っ最中だったけど
リセットしたくて仕方がなくって
日本を出てイタリアに住みながら
先進国とは違うような国を旅していた。

言葉が通じないけど、意思が疏通できる
言語もそうだけど、耳が聞こえない人
赤ちゃんや子ども、単に大人同士だって
意思を伝える方法をずっと研究しているかもしれない。

土壁家族の主は私に
手紙が受け取れるP.O.Boxみたいな住所を
渡してくれたので、家族の写真を送ったのだった。
ちゃんと着いたのかな。

今はみんな、子どもたちは大人になって
お父さんお母さんは
おじいちゃんおばあちゃんになっているのかな。


地震で被害がなかったことを祈るばかりですが
全地域お見舞申し上げます。

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私は、料理が苦手だった。
苦手で下手だったのは
料理への興味や意識、必要性とか経験不足だった
のだとおもう。

キャリアウーマンでシングルマザーの母と
料理をしているところをみたことがない祖母と
料理に興味を持たない...
たまに生クリームをつかったお菓子作り..いや..
クレープ作りぐらいしか興味がなかった思春期頃の私の暮らしは
その仕事後の母の夕飯を待った。

母は、それでもよくつくってくれた。
今おもうと、料理は私たちのためにつくっていただろう。
料理好きとか得意とかいう味はしなかった記憶がある。

メニューも手の込んだものより
煮物系が多かったような記憶が...今蘇ってきた。
それでもお惣菜は、コロッケぐらいを頼る程度で
割と何でも自分の手でつくっていたとおもう。

それでもある日、母は帰宅して
休憩しながらこたつで寝ちゃって
なかなか起きない日があった。

私と祖母はその時どうしたか覚えていないのが残念だけと
家族の料理人が起きるまで
待っている時間の方が長かったとおもう。
絶対そうだ。

ある頃、母の妹家族が近所に引っ越してきて
ときどきおばちゃんが我が家の台所を仕切った。

家族の料理人である母はアシスタントにまわって
さらなるアシスタント私と従姉妹も加わって
コロッケも餃子もいっぱいつくった。
手でひとつひとつむすんだ
何個も食べられる料理がご馳走にみえる。

ちらし寿司やお赤飯、お祝いの料理も得意なおばちゃん。
母も料理好き妹がいるときは楽しそうだし嬉しそうだった。
そういうシーンはやっぱり忘れられない。

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私は一人暮らしを始めて料理ができないことに気がついた。
できないというか、やったことがないし知らなかった。
料理の基本のような本や雑誌を買った。
その本が今もある。
レタスクラブやオレンジページだ。
レシピ切り抜きやメモファイルもつくった。

私はまかないが食べられる飲食店でアルバイトをした。
仕事感覚というより生活の一部という感覚だった。
若かったから疲れない。毎日働いていた。
毎日そこで食事をさせていただいた。
なんなら余ったお惣菜は次の日のお弁当でもあった。

私は料理をすることに興味がなかった。
誰かにつくってもらうことに慣れてしまっていた。

しかし、学生最後の年には卒業展覧会というものがあり
生活の一部であったアルバイトをやっている時間がなくなった。

誰かにつくってもらう生活だったが
母の手料理だけではなくバイト先で口にしたものを
つくってみる生活がはじまった。
でも、まだ興味とか好きという気持ちはさらさらなかった。

一週間分何食か作り貯めをして冷凍して
毎日小分けされた自作冷凍食品とビールで
うだうだと卒展制作をしていた記憶がある。

それがいけない。
まだ料理をすることが習慣化さえもされてない。

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食のイタリアに渡ってもかなりの間
食にも料理にも興味がなかったことに後悔している。
身近でイタリアの食材でイタリア料理が
つくれて食べれるなんて。

ほんの少し料理に興味が沸いてきたのは
どんどん大人になるにつれて
料理の話をする機会が増えたことだ。

そして友たちを招待し合うことも増えたことは
料理の腕を磨かなくてはいけない!と焦った。

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私が妊娠した時、保健所の新ママ養成無料セミナーに参加した。
体の変化や出産の心構え、産後の対応なんかを教えてくれた。
私は、誰にも相談する人がいなかっただけに
ありがたかったし心強かった。

そのセミナーの一部に栄養の授業が何回かあって
そこには夫と一緒に参加した。

プロテインとか炭水化物とかビタミンとかミネラルとか
食べた方がいい順のピラミッドをそこで初めてみたり
食品の組み合わせや、摂取した方がいいもの
妊娠時母乳時の食生活、離乳食やその後も教えてくれた。

私は、そうやって食に対して細かく考えたことがなかっただけに
ヒトの命を自分が守らなくてはいけない意識がメキメキと芽生え
ここから食生活を意識するようになったのである。

妊娠時にタバコも夫婦でやめたし
妊娠を機に大きく生活や意識が変わった。

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私は、≪子育て≫という呼び方をあまりなぜかしたくない。
なぜなら、子を育てるという感覚より
子と生きることが一つの課題だったような感覚で
どうやって対応してよいかわからないことだらけで
子育てというなんとなく親の上から目線だけでなく
どうやったら家族が健やかに生活できるかを
毎日考えている...向き合うようにおもうのである。

外食にほぼ行くこともなく毎日手作りで
ここでようやく料理への興味や意識、必要性とか経験が生まれるのである。

ヴィンチの丘で夏にはカチカチの畑も体験した。
カチカチの土を人力で耕すことに降参し
耕さずに土をフサフサに保つ自然農法でトマトだけを栽培している。
自分のトマトは水やりをあまりしないから小さいけど
どこにも負けないほど濃厚で甘い。

ワインも自分が自分のブドウのように作業を手伝っているワインだ。
愛着がわいてひとしきりうまい。他がいただけないほどだ。

イタリア料理には欠かせないオリーブオイルなんか
美味しいオリーブオイルができるまでのレシピを学んで
美味しいと不味いのつくり方や味を知った。
我が子もどれが美味しいオリーブオイルか味分けられる。

日々の生活の中の美味しい料理とは
仕上げの味付けだけではなく、材料の選別という原点を
家族で身で学びはじめた。

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先日、海外在住者向けオンライン日本映画祭があって
そこで≪南極料理人≫という映画にであった。
南極へ向かう観測隊に調理人というスタッフが配属され
その調理人は観測隊の食事のことだけを考えればいいのであった。

この調理人は給料が出るだろうけれど
家族の料理人は給料なんか出ない
毎日この調理人と同じことをしている。

観測隊のところが家族の住人で各々に集中しなくてはいけないことがある。
調理人のところが私で家族の食事と満足と健康を考える。

私が季節労働の畑作業でヘトヘトなときも
料理人が私だから勇気を出して台所に立つ。
そこで、ヘトヘトでこたつで寝ちゃった私の母を毎回思い出すのである。
あの時の私と祖母が、今の息子と夫なんだと。
私がのびてウトウトしていても奴らは私を待っている。

ウチは誰も料理のことを褒めない。
「いただきます」もなければ「ごちそうさま」もない。
私一人で「いっただっきまーす」と言い
私一人で料理のコメントをして
私一人で「あーお腹いっぱい、今日も満足!ごち。」としめる。
男たちは、黙って食べて私のコメントにうなずいている。

そして思春期青少年は好き嫌いが思春期になってさらに続出し
残したりすると、ケンカまで起こる始末だ。
そんなことが頻繁に続くと、こっちはつくる気なくす。
それでもここ最近私は開き直って
母(私)ができる間はぐっとこらえて料理をしようじゃないか!
とまた気を取り直した。

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今日、何を書きたかったって...

「パスクワ(復活祭)の日、何が食べたい?」と思春期青少年に聞いたところ
「ラザーニャが食べたい。」という。
「なんでパスクワにラザーニャが食べたいの?」おかしな子だねぇ。。
「お誕生日に食べられなかったから。」なるほど!

そうだ、お誕生日の日、自分で食べたいものリクエストしたのに
お友だちに誘われて、アツアツのラザーニャが食べれなかったんだ。
特別な日ではないと、私だって何が食べたいか聞かない。

私は、パスタの生地もつくって土鍋さんで牛肉のラグーソースを煮込んで
野菜だしとこしょうを効かせたベシャメルソースをこしらえた。

パスタ生地を今回なるべく薄くのばしたので
何層になってても邪魔にならなかった。
美味しくできて奴らはお替りをしていた。
でも、相変わらずノーコメントな男たち。

これが今季最後であろうSchiacciata Fiorentinaもつくった。
このケーキにはオレンジが入る。
G.A.S.で購入したシチリア産のBIOのオレンジでしか私はつくらない。
最近では、擦った果皮と搾った果汁とさらに残った果肉も入れている。
果肉も入れることで生地がさらにしっとりしている。
そしてベーキングパウダーを使わず重曹を使っている。
オレンジの酸味と反応してとってもよく膨らむ。

その夜お客さんが突然来ることもあって
Carciofiとタンポポと鶏肉のフライもAntipastoとして多くこしらえた。
揚げてるそばからつまみ食いに来る男たち。
見張りをするのも家族の料理人の仕事。

さらにタマゴチョコの代わりに
ヴィーガン流カカオケーキをつくったけど苦く感じた。
男たちは、ん?と苦そうな顔をした。

DSC07705

思い起してみると、どの時代も同じ風景を繰り返しているだけだ。
あるとき料理を放棄したくなるときもあるしあったけど
気を取り直して、私ができるまで
奴らのためと私のBenessereのために引き続き
家族の料理人をしたいと想う。



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DSC07694

1月の半ばになると、SNSで阪神大震災の追悼が流れ
毎年毎年、当時のことを体で思い出す。

私はあの日、フィレンツェのシェアハウスに到着した日だった。
大家さんは「アナタ日本人よね?!アナタの国凄いことになってるわよ!」
と、イタリア時間ではお昼頃の国営放送で
私と大家さんと大家さんの旦那さん、確か三人で
キッチンにある小さなテレビに唖然と立ち尽くし
私は身震いがして体がさーっと冷たくなったことを
本当に体で覚えている。

日本に連絡したくても、イタリアに着いたばっかりで
言葉はもちろん土地も何も全くわからない。
スマフォなんてものは当時ないし、ネットもない。

早急に連絡するとしたら、街角の電話ボックスからだ。
確か専用のコインが必要だったような気がするし
もしくは、テレフォンカードだった。
国際電話なんてものすごく高かったし
コレクトコールだったか支払いは着信者でも家族でなければ失礼だ。

私は地球の反対側でおどおど何もできず、ただただ窓から見えた
サンタクローチェ教会の十字架を眺めるしかなかった。

DSC07691

そのシェアハウスに到着する前日の夜
私は乗り継いでフィレンツェ空港に着いた。

小さい空港と灯りと、さっさと人が去っていく感じを覚えている。

ずっとオロオロと空港に長居してはいけないのか、とか
あのオレンジ色のバスは街との連結バスなのであろうと勝手に解釈して
閑散としたその市営バスに乗り込んだ。

怖いもの知らずとはこのことだと永遠に忘れられない。

空港から離れていくと、だんだん人が乗ってきた。
どこがセンターかもわからない、どこが終点かもわからない。

さっきまで人が乗り込んできていたのに
だんだんまた人の気配が少なくなっていく。

そこでようやく不安になって、横にいた乗客にイタリア語で質問した。
ラジオ講座で独学したなんちゃってイタリア語である。

「え?!とっくにセンターは過ぎたよ!今シエナ方面に向かってるよ。」
と、日本語にすんなり変換されたことをよく覚えている。
きっと「ノーセンター、アッチ、シエナ!」

一方通行の多いイタリアの街中は
向かい側に戻るバス停があるとは限らない。

もう自分がどこにいるかわからなくなってしまって
時間が夕飯時に入ったのであろう、道行く人がいない。

どうしよう。。。

出発前に泣き別れしたおばちゃんが
「困ったときにでも使いなさい」と私にくれたお金を思い出した。
生活費に使いたかったけれど、困った≪今≫に使うことにした。

なかなか現れなかった神様のように思えた通りがかりの人に
ここから一番近いホテルの場所を教えてもらった。
イタリア語で「アッチ!30プン、アルク」www

もう一人のおばちゃんの赤いチェックの布製スーツケースは
古いタイプで、真っ直ぐ進んでくれなかった。
汗をかいてジャケットを脱いで歩いた。

あとで知ると、南フィレンツェ方面のアルノ川沿いを
とぼとぼ歩いていた様子だ。
ちっともシエナなんかではなかったけれど
観光客にはフィレンツェ・シエナ・ピサなどの観光地
トスカーナキーワードを並べてくれたのであろう。

ホテルにはどうやら辿り着いた。
ホテルが開いててよかった。そんなことまでホッとした。

なんにもわからない外に出たくない。
日本から持ってきたお菓子をつまんで寝入った。

翌朝、カウンターのお兄ちゃんに小梅ちゃんの飴をあげて
タクシーを呼んでもらった。
シェアハウスまでタクシーであっという間に行ったのだった。

そのシェアハウスで、その被災を知ったのだった。

DSC07690

あれから27年という月日が経ち
今出会うイタリアの子たちの中で
私がフィレンツェに降り立った27年前にはまだ
生まれてなかった子たちと出会うようになって、はっとする。

時間はどんどん過ぎて歳だって追っていることなんかわかっているけど
この27年間私はいったい何をしていたんだ
と振り返ってしまうことと
この子たちのこれからってどう生きていくんだろう
と自分と重ねたり、いや、もっと楽しいはずだ!と羨ましくなったりもする。

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ついこの間まで、我が少年は私の胸ぐらいの背丈だったのに
いつの間にか、私が思春期青少年の胸あたりの背丈にいる。。

雨降りの朝、思春期青少年を乗り継ぎのある隣村のバス停まで送った。
バス停があるBARの屋根の下で雨宿りしている青少年たちは
まるで制服のように同じような格好で
黒いスウェットパンツにパーカーの上には黒いダウンジャケット
白地に黒マークのNike Air Force 1を履いて
みんな手をポッケに突っ込んで、一列にこっちを向いている。

幼稚園の頃から一緒だったお友だちも
わる風に背伸びして尖った感をみせている。

大人からするとおかしいんだけど
いちいち私もあんなんだったのかなと笑っちゃう。

ツルツルスベスベだった肌にボツボツニキビができて
思春期だけのせいではない、食生活のせいだよといっても
それでも不規則な生活をして、反抗的な態度をみせる。

大人からするとおかしいんだけど
いちいち私もあんなんだったのかなと笑っちゃう。

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怖いもの知らずだった私はだんだん怖がりになっちゃったけど
これからの私は怖がりなのに、昨日までのことは笑えちゃう。

だから私はフィレンツェに降り立った日のことを忘れられないのだ。



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