大地の住人 ヴィンチの丘で

地球と体に優しいコト ~イタリアから~

フィレンツェの端っこレオナルド・ダ・ヴィンチのふるさとヴィンチの丘に在住。 大地の自然たちと向き合って地球と体に優しい様々なコト、発見・提案・発信!

タグ:Makici

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「どうしても行ってみたいところがある。」

行きたいんだったら行けばいい。

私だって移住している身だから、試しに行ってみるのは賛成だ。

しかし、単なる旅行ではない。

「気に入っちゃったら移住も考えたい。」という。

自分がやってみたいことなら、自分で調べて計画してみればいい。


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私が高校生の頃

アルバイトはしていたがファッションや外出にほとんど費やしていた

と記憶する。しかし親に小遣いをせがむことはなかった。

高3の夏休み

みんなで伊豆諸島に卒業旅行的思い出ヴァカンスをしに行こう!

という案が上がった。

友だちとそんな旅行に行くなんて胸が踊りまくり絶対に行きたい!

と思ったことは当たり前だと当時も今も思う。

母子家庭の母にそのことを相談した。

「きちんと計画をして見積もりを立てなさい。」

見積もり・・・

高校生の私は驚いた。

しかし、当然だ。私はいろいろ調べ始めた。

交通費、宿泊費、食事代、雑費など。

この時に、計画を立てる、調べる、見積もりの仕組みを覚えた

と確信している。母に感謝したい。

そして、母が五万円をくれたことをはっきり覚えている。

そのことばっかり記憶があって、肝心な伊豆諸島旅行の方は

写真にあるシーンと同じ記憶しかない。よく覚えてないのである。


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2002年の冬、私と夫は、夫が夢みたオーストラリアへ飛んだ。

タイ航空でタイ経由だった記憶があるが

なにしろスチュアーデスさんたちが

ものすごく感じが良かったことは絶対に絶対に忘れられない。

日本人のビジネススマイルとも違う

欧米の無愛想な接し方とも違う

生活の中の優しさがそのまんま職業に活かされている表情。

あれから私と夫の中では、タイ人の好感度100点満点である。

空港でも賑やかなマーケットが繰り広がっているようで

街に出なくてもタイの空気だけは身に触れることができた。

大急ぎで乗り換えだけのトランジットは残念すぎた。


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私たちは、マイナーに西オーストラリアのパースに到着した。

なぜパースだったのか。

それはイタリア人の移民が多いという情報を得たからである。

なぜイタリア人の移民を期待したのか。

それは言語の不敏さとコネとか協力を求めようとしたからである。

オーストラリアに移住するには

英語を話せる人、お金を持ってる人、技術を持っている人

確か・・家族がいる人、だったように記憶する。

夫は、どれも当てはまらない。

貯めに貯めた全財産をはたいても

お金を持っている枠に入らない。

その貴重なお金は、滞在費に消えていく。

ユーロになった頃の何枚もの500ユーロ札を

私も手伝って腹に巻きつけていった。


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節約のために、ユースホステルみたなところに数泊した。

安い金額はやっぱり安い落とし穴があり、不潔だった。

マットレスの裏にはノミがいっぱいいたようで

ノミが出やすい側の私の身はいっぱい刺された。

日本人が滞在費と交換に清掃のアルバイトをしていたが

やっぱり素人なのである。履いたり拭くだけではダメなのである。

そこで交渉するにも語学力不足であった。

病院に行くにも旅行保険に入っていなかった。

ここで旅行保険の重要性を思い知る。

変なところで節約しようとすると、どこかで痛い思いと出費をする。


数泊している間に、しばらくの滞在先を見つけた。

土地勘がないのでとりあえず街まで歩いていけるアパートにした。

思い出すと、可笑しい。

トイレが離れにあったことを思い出した。

そしてサンルームみたいにとってつけたようなところが私たちの部屋で

ゴキブリがいっぱい出たことも思い出す。

中庭にグルグル回る大きな洗濯物の干し竿があった。

土地がある国らしい物干し竿である。

もう一軒建ててもおかしくないほどの庭はあまり手入されていない。

それが虫や鳥には好都合なようだ。

薄暗くなると、白い鳥がきて、妙な声で鳴いていった。

イギリス人でもヒッピー的ナチュラル系か

モッズ系都会人に分かれると思うけど

元祖イギリスのせいか、オーストラリア人も2タイプあるようだ。

ここのアパートは、ヒッピー系なるようになれタイプの

母子家庭の一室だった。

でも、人見知り親子で話した記憶はちっともない。


夫だけ語学学校に通った。

私は午後夫のノートを一緒に復習した。

日本人が多かったようだ。

一度だけ、ホームパーティに参加したことがある。

若い子ばかりで、若いと思っていた私たちよりももっともっと若かった。

同時進行に日々今後の情報収集をしていた。

どうやって出会ったか覚えていないが

クリスチャンイギリス人の無料英語講座があることを知り

高額な語学学校を一ヶ月で退散し

クリスチャンイギリス人に託すことにした。

無料だから私も通った。

そこにはアジアンやアラビアンがいっぱいいた。

ケタケタと母国語で独り言を言うフィリピン人のお母ちゃんが

優しくって、お互い言葉が今一なんだけど

それでも共通語は英語で、お母ちゃんはマーケットのことや

料理のこといろんなことを教えてくれた。

お母ちゃんの言う通りパースのマーケットで野菜を買った。

安くていろいろあって楽しくってよく通った。

マーケットは商品が剥き出しで、素材や人間味を感じた。

スーパーはその反対で、全てが包まれていて無機質だった。


原住民アボリジニがその辺にたむろいまるでホームレスのようだった。

むしろ怖いぐらいだった。

イタリアでよく見かけるRom(住居を持たない遊牧民族)のような

根拠のある生活スタイルなのに

動物と同じで都会にくると糧が簡単に手に入る空気がするのか

いろんな手で日々生き凌いでいく。

私たちが普通に認知している政治があって法律があってという

生活のルールを知らない彼ら独特の理念で生きていくのである。

話を聞くと、後から押しかけて我が物の顔で国を乗っ取った

イギリス人から原住民アボリジニ民族へ対する賠償は

生活を100%保証することのようなのである。

今でもそうなのかわからないが、うだうだグループがたむろっていて

彼らの原住民風貌で生まれてしまった人生は

ちっとも活かされてなく、残念に思う風景であった。

アボリジニだろうが元イギリス人であろうが

街にいるなら一緒に公平に生きれたらいいのになぁと

私たちは寂しく眺めていたものだった。


図書館、公民館、語学学校、いろんなところに私たちは出向いた。

人に出会いたいけど出会えない。

アルバイトをしたいけどなかなかみつからない。

私たちは、イタリアンクラブみたいなイタリアンコミュニティーのある

イタリアでいうチルコロみたいなところにも通った。

そこの掲示板にイタリア人を探す求人があった。それは・・

‹ イタリア語しかできない98歳のおばあちゃんの

話し相手と交換に部屋を無料で貸します ›

というものだった。部屋が無料とは今の私たちには願った話だ。

これもご縁かもしれない、私たちは即決した。

そのおばあちゃん一族は、シチリア人であった。

子ども等があの頃逃げるようにヨーロッパ恐慌期を去った'50年代

タイタニック号のように船で渡ってきたイタリア系移民一世である。

パースに漂流して住み着き

その後シドニーやメルボーンに移住していったそうだ。

元イタリア人が県長をやっていたりするほど

とにかく当時のイタリア人がいっぱいて活躍して裕福に暮らしている。

港にはヨーロッパ恐慌期移民時代のミュージアムがあるほどだ。

未知の国オーストラリアに何を望んで決心したのだろう。

辛いこともあっただろうが、オーストラリアに移住して

みんな幸せそうだ。

一世たちのお宅にお邪魔させていただいたが

すごーーくでーっかい豪邸だった!

一世ご夫婦も娘たちもみんなイタリア語で話していた。

一世のご主人はMuratore(レンガ大工)で

生活を繋いできたそうだ。

'90年代の東欧からのヨーロッパへの移民みたいだ。

残念ながら東欧系移民はヨーロッパでの生活はそう甘くなかった。

私たちは、このシチリア人一族の呼び寄せた長老

おばあちゃんとの生活が始まったのである。


つづく



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どうやらこの日を待っていたようだ。


どこを探してもこの手の記事が一つも見つからない。

ブログを始めて4年が経つ。投稿した記憶はあるのだが。


そうだ、フェイスブックに投稿したんだ
5年前に。


あれから
5年経って、25周年となろうではないか。


フェイスブックをスクロールしまくって
5年前に遡った。


5
年前も10年前も15年前も

そしてあれから25年経った今も

あの日はあの日なんだ。

過去は変わらない。


しかし、私が暮らす土地をイタリアにしたことは人生の転機であって

その記念する日をどうも忘れることができない。

むしろ祝いたいぐらいである。



1995115日、私はイタリアの地に足を踏み入れた。

何かが始まったわけでもなければ変わったわけでもない。

胸が騒いだ日だ。

人生という旅の中で胸が騒いだ日は記憶に残る。 ”


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なぜ旅立ったのか、海外へ移住してしまう人に向けて

必ず質問したい項目である。それは、移住者同士でも。


私は、頭を切り替えたかった。


唯一大人として頼りにしていた母が亡くなって

私は涙の海となるほどショックだった。


今も相談したいことがいっぱいある。

自分一人で考えて考えて苦しくなるくらい考える。


母が亡くなって一週間もしない内に、相続や供養の話など

とにかくお金の話を親戚たちは

毎日泣いてばかりで誰にも会いたくない私に

課題を押し付けてきた。


私はこの課題のせいで正気を取り戻し始めたような記憶がある。

好き勝手にはさせない。

若くたって弱いワタシをみせるのは危険だと察した。

専門家にも相談しに行った。


一番よいだろうと思う結果をだしたと思う。

だから今でもその時の大きな課題に関しては悔いがない。


しかし、お金に目が眩む大人たちに

ワタシのカラダの中で骨を溶かしていくような寂しさを覚えた。


私は距離をつくりたくなった。

独り身となった弱みを握られたまま、私は遠くに行きたくなった。

それが私の旅立つ理由である。


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ロンドンでもニューヨークでもどこでもよかった。

しかし大きな都市でたじろぐワタシを想像してしまった。


そこで高校の世界史の先生がフォロ・ロマーノのことを

一人演劇風に語っていて、夢中に聞いたことを思い出し

イタリアを調べ始め

工房のたくさんあるフィレンツェに決めたのである。


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一年目の留学時代、同じ留学してきた仲間と

四六時中時間を過ごし、何もかもを語りあった。


どうしても胸が騒いだ旅立ちの年は、思い出深い。


浅い過去と深い未来を持った私たちは

フィレンツェの教会のクーポラが見える小さな部屋で

何度も乾杯し、みんながあのアパートに集まった。


なんだかみんなみんな弾けていた。


そしてみんなみんなバラバラに道を歩んだ。


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頭はそう簡単には切り替わらなかった。


世の中はそう甘くない。


問題にぶつかると、骨を溶かすような寂しさがまた襲ってくる。

きっと母に相談したい時なのかもしれない。

だからわけもなく泣いて泣いて考えて考えて

私は人里離れた田舎に住むようになったのである。


丘の上から眺める景色は最高だった。

高すぎもせず低すぎもせず。

私の出身地で出会わなかった景色だ。

その丘はオリーブがいっぱいに埋め尽くされていた。


そのオリーブの丘で、フィレンツェで習った

Carta Pestaの技法をアレンジした方法で作品を作り出した。

作品で気持ちを表現したりした。

だんだん寂しさが小指一本の気持ちになっていった。


Non finisce mai la bellezza - parte

私は、私のことを誰も知らないところだったら

どこでもよかったのかもしれない。


こうやって私が気が向いたときに寂しさを語れればいい。

襲ってくる寂しさはもう懲り懲りだ。


ある年、日本の実家を売却した。

寂しさに変えた大人たちがだんだん小さく見えるようになってきた。

清々しくイタリアに戻った感情は忘れない。


しかしその日にちは覚えてないのだ。

清々しい日より胸が騒いだ日の方が記念日となるようだ。


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今、オリーブの丘でオリーブを栽培して

オリーブの成長を観察しながら、私の人生史と重ねてしまう。


常につきまとう孤独感を植物たちと過ごすと

仲間のように感じてしまう。


きっと日本にいても、日本のどこかに逃げていたかもしれなくて

きっと植物に近いところで生きていただろうと思う。

だから何が変わったわけでもなく始まったわけでもないのだ。

距離をおくって必要だなと確信したことだけは

唯一自信を持って言えることである。


そこがイタリアだったのだ。

その到着日が1995115日なのである。


その頃はこの日が成人の日で祝日であった。

今や時代も変わり祝日がなくなっちゃって第二日曜日のようだが

成人を迎えられたみなさま、一先ず、おめでとうございます。



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20年以上前、フィレンツェに初々しく滞在していた頃、早速、Vinciヴィンチ村の外れにあるレオナルド・ダ・ヴィンチの生家を見学したく、一人でフィレンツェから電車とバスを使って訪れた。

短距離のハイキングコースを歩けばいいものの、きっと・・・道に迷うと思ったのかそれとも一人で畑道は怖いと思ったのか、アスファルトの車道を辿って行くことにした。

車道もオリーブの木々を分けていく。

見渡す限り、オリーブ。

オリーブの坂道は、どこまでも続く。・・・ような気がした。

時間に制限は無い。休憩することにした。

そこ、オリーブの木の下で。

ヴィンチを囲む街々や畑が一望できる。

あの時も6月だった。

ヴィンチの丘・・オリーブの丘を通る風は心地良かった。

当時、自分がヴィンチの丘の大きなオリーブの木がある家に住むなんて思いもしなかった。でも、この心地良さは、そう簡単には見つからないと予感した。

あ~~~気持ちがいい。昼寝までした。

Sotto l'Olivo

今、ヴィンチの丘の大きなオリーブの木の下にいる。

あの時と同じ6月。あの時だって暑かった。でも日陰にいると、このサラサラした空気はあえて気持ちがいい。

風が通る度に、枝が動く。影が動く。

日がチラチラとこぼれ注ぎ、チカチカと輝く。動く影も輝いて見える。

逆光から見るオリーブは、私を見ているようだ。

Ombra dell'Olivo

このオリーブの木は、私の一番すぐ近くにいる。

毎日観察して、毎日撫でる。雨が降った後もオリーブに会いに行く。

このオリーブの木は、どの畑の中でも一番元気で一番実をつける。

5月の開花中、急に熱い日差しに照らされても、彼らの吐息は樹を潤した。

こんな帽子被っちゃって。

Cappellino di Oliva

私のオリーブ。

このオリーブが元気だから私も元気になる。

こんなオリーブの木の下で、私とオリーブは気が一つになる感じがした。

Olivo e Tramonto


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子を産んだ頃からかマキさんと呼ばれるようになった。

それぞれにハッスルした時代である。

少年には、マキちゃんの頃・・・マキチの頃・・・お母さん・・・と三つに分けて語る。少年は、愉快に時代を選び、思い出を聞きたがる。

Ingresso di Mostra

そう、それはMakiciの時代のSanValentinoサンヴァレンティーノ(バレンタインデー)の日、私はFirenzeフィレンツェのとあるBorgoボルゴ(古い地区のある通り)で個展を開催していた。

あの時代、リサイクルペーパーとリサイクルフラワーでリサイクルアート制作に夢中だった。

Catalogo fatto da me

今は直々に植物の剪定で現在・過去・未来に向き合うが、当時はモノとコトの現在・過去・未来をグルグル考えていた。

今も変わらない。

あの青春時代のMakiciが一生懸命考えて考えて狂おしいほど考えたコトは、時間が過ぎた今でも変わっていない・・・と作品を見て想う。

そんな作品たちを一気に並べた個展では、時と出会いと作品を祝ってSanValentinoの日、チョコレートを頬張ってもらった。

Regalavo un cioccolato

日本のバレンタインデーはアレンジな風習を思い出すが、出会いに感謝を込めてチョコを食べる日でもいいかもしれない。

Mostra in Loft

あの日、ちょっとセンチメンタルな曲(あるトルコ映画のサントラ)を会場で流していた。

曲にそそられて立ち寄ってくれた人もいた。

「ここはいったいどこ~??」

私の部屋のように招待し、紹介したっけ。

「どうしてもアナタの作品が欲しい!」 

「サインを作品の表にして。」

Makici sta firmando

今やSNSで自分と似ているヒトや好きなモノを探せるIT社会。

Makiciの頃は「出会い」に出会うのに、考えて作品をつくって個展をして、出会いのチャンスをつかんでいた。本当のところは、現在もそうなのかもしれない。

Stampata su Carta Riciclata Fabbricata

手でつくる出会い。

2017

そんなきっかけと思い出に、チョコでも食べよっか、少年。

ぽっと空は紅く染まる。


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