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ふとカレンダーを見ると、もう2月14日ではないか。

この日も私には記憶の中の日となったことがある。

バレンタインのチョコの話でもしたいところだが

人が浮きだった頃私は、病院で一人肩をすくめ途方に暮れていた。



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私には兄がいた。

しかし、両親は年子の私たちが幼少の頃離婚してしまった。

兄は父方へ、私は母方へ、男女まっぷたつに別れた。

私も兄も両親もどんな想いであったのだろう・・・。

それを探ることは今までしたことはない。

そして、父が早々にあの世にいくまで、私と兄は会うこともなかった。


兄と再会した頃はもう私たちは高校生であった。

母だって私と同じく兄と会っていなかった。

大阪で別れているのに

父と兄は東京の外れの一軒家に住んでいた。

とりあえず会おうということで、若者が好む渋谷で落ち合った。

こんなゴチャゴチャしたところで、十数年も会ってない

育ち盛りの青年がわかるのであろうか。

ところがわかるものなのである。

兄も母も二人はすぐに見つめ合っていた。

二人はお互いに手を小さく振りあっている。

すごくよく覚えている。

私だけ、キョロキョロしていた。


私はあまり話さなかった。

兄もあまり話さなかった。

母もあまり話さなかった。

それからよく覚えてないけれど

その日か別の日か、私と母は兄の家に行って

ハンバーグをつくった記憶がある。


今思うと、いやその頃だって思ったけど

18歳の青春は一軒家に一人で住んでいたのである。

ご飯はどうしていたのだろう。

生計はどうしていたのだろう。


兄は、学業を諦めて働いていた。

ちょっと水商売系の仕事のようだった。

後で写真を見て、楽しかったんだろうシーンに涙した。

人と変わらない青春を送っていたようだ。

兄は、ハンサムでどちらかというとジャニーズ系らしい。

仕事先ではとても人気があったようである。


兄が青春をしている頃、母は難病と仕事に追われていた。

正月や四季折々にある親戚一同で集まる会には

兄も我が家に来ていた。

いとこたちとすぐに溶け込んだがやはり違和感があった。

母に似て気品のある顔立ちだった。


楽しそうに青春をしている様子だったので

私は、あまり母のことで相談をすることもなく

いつまでたっても兄妹の関係はつくれなかった。

そして、母は病に負けた。

母の死の知らせに、兄は飛んできて、わんわん泣いた。

こんなに泣きじゃくる男子をはじめてみた。

狂っているのかと思った。

これからこの人はどうしていくのだろう。

きっと何も変わらないはずだ。

父が亡くなったときが一番変化があったに違いない。

私が今(あの頃)変化を受けているのと同じで。



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私と兄の関係はぎこちなく進んでいく。

私は、兄との関係の変化は何もなく、イタリアへ出発した。

すると、約一年後ぐらいに、日本から電話があった。

「すぐに帰ってこれるだろうか?」

父方の叔母からであった。

兄が白血病になったから、家族の輸血がほしいという。

私は、飛んで帰った。

兄との関係はなんだかよくわからないまま

兄と私は兄妹なんだっていうことだけの細い紐のような繋がりは

藁をも掴むようであった。

今までだっていなかったようなものだけど

兄まで私を置いていくのか。

どうしても助けたかった。

私の血で助かるぐらいだったら

どんどん吸い取ってくれという想いであった。

しかし、私の血では相性が悪く、力になることはできなかった。

たった一人の血肉なのに。


今まで輸血した副作用の話を聞いた。

とても辛い体験をしていた。

・・やはりここには書けない。

結局のところ、兄は闘病生活を引き続き送り

私は、今日明日に生活を変えられる環境ではなかったので

そのまま引き続き叔母に兄を任せた。

父はこの叔母を頼りに上京してきたようだ。

父と兄は、ずっとこの叔母と家族のように過ごしてきた様子である。

叔母は上品で親切な人で、兄を息子のように可愛がっていた。

私は、すごく安心した。

私にも親切にしてくれた。

この叔母でよかった。

私は羨ましいぐらいであった。


私が日本に再び戻ってきて間もなく兄は入院した。

何度か見舞いに行くが

ただそばにいるだけで無念な気持ちになるだけであった。

病を交代してあげたいぐらいだった。

私は黙ってそばにいた。

何を話せばいいっていうんだ。

私には無力すぎて、そこにいるだけでも辛かった。

そして兄は私に「ありがとう。」といった。

ありがとうという兄は、髪の毛がなくったって顔が腫れてたって

すごくすごく気品があった。

母似で、叔母に愛され、それでいて「ありがとう」は私の兄だった。


「ありがとう」を言ったその夜

兄までもが私をおいてあの世にいってしまった。

その日が、バレンタイデーの日だったのである。


私は息を引き取った兄とその晩同じ部屋で寝た。

私の帰る場所を失ってしまったかのように。

叔母が父の墓のあるところに連れて行ってくれた。

私は墓に執着心はないのだが

父の仏壇の中の写真を見てわんわん子どものように泣いた。

叔父叔母は困った様子だったがとまらなかった。

母が亡くなったとき兄がわんわん泣いていたことを思い出した。

私も同じだった。

父の隣に兄が並んでしまった。


兄は享年26歳だった。

きっと今だったら白血病は治せるんじゃないかと思うけど

あの頃は、試験人間のように辛い体験をし

一人あの家でインスリンのような注射を打っていたと思うと

寂し過ぎる人生だったと胸が痛い。

もっと近くにいればよかったと後悔するけれど

近くにいても心の距離がありすぎて

何もできなかったはずである。



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両親が離婚するケースで

イタリアだったら親権が半々となり

子どもが行ったり来たりの生活を強いられる。

日本の私たちのような片親のみという場合

自分の居場所はできるが、片親に会うことはない。

どちらがよいのか、それは子どもにしかわからない。

そして、離れ離れになった兄妹は

結局他人ぽく生きていくのである。

私は、イタリアのあっちいったりこっちいったりする生活よりも

性格上、ずっと同じところで自分の居場所がある方が好ましい。

だから、両親の決断に異議はない。

もともと家族はないものとして生きてきたから。



la famiglia non è che esiste, è da costruire

そしてこの作品が生まれたのである。

『家の中の族』

« 家族て在るものではなく つくるもの »

La famiglia non è che esiste, è da costruire.



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