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「どうしても行ってみたいところがある。」

行きたいんだったら行けばいい。

私だって移住している身だから、試しに行ってみるのは賛成だ。

しかし、単なる旅行ではない。

「気に入っちゃったら移住も考えたい。」という。

自分がやってみたいことなら、自分で調べて計画してみればいい。


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私が高校生の頃

アルバイトはしていたがファッションや外出にほとんど費やしていた

と記憶する。しかし親に小遣いをせがむことはなかった。

高3の夏休み

みんなで伊豆諸島に卒業旅行的思い出ヴァカンスをしに行こう!

という案が上がった。

友だちとそんな旅行に行くなんて胸が踊りまくり絶対に行きたい!

と思ったことは当たり前だと当時も今も思う。

母子家庭の母にそのことを相談した。

「きちんと計画をして見積もりを立てなさい。」

見積もり・・・

高校生の私は驚いた。

しかし、当然だ。私はいろいろ調べ始めた。

交通費、宿泊費、食事代、雑費など。

この時に、計画を立てる、調べる、見積もりの仕組みを覚えた

と確信している。母に感謝したい。

そして、母が五万円をくれたことをはっきり覚えている。

そのことばっかり記憶があって、肝心な伊豆諸島旅行の方は

写真にあるシーンと同じ記憶しかない。よく覚えてないのである。


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2002年の冬、私と夫は、夫が夢みたオーストラリアへ飛んだ。

タイ航空でタイ経由だった記憶があるが

なにしろスチュアーデスさんたちが

ものすごく感じが良かったことは絶対に絶対に忘れられない。

日本人のビジネススマイルとも違う

欧米の無愛想な接し方とも違う

生活の中の優しさがそのまんま職業に活かされている表情。

あれから私と夫の中では、タイ人の好感度100点満点である。

空港でも賑やかなマーケットが繰り広がっているようで

街に出なくてもタイの空気だけは身に触れることができた。

大急ぎで乗り換えだけのトランジットは残念すぎた。


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私たちは、マイナーに西オーストラリアのパースに到着した。

なぜパースだったのか。

それはイタリア人の移民が多いという情報を得たからである。

なぜイタリア人の移民を期待したのか。

それは言語の不敏さとコネとか協力を求めようとしたからである。

オーストラリアに移住するには

英語を話せる人、お金を持ってる人、技術を持っている人

確か・・家族がいる人、だったように記憶する。

夫は、どれも当てはまらない。

貯めに貯めた全財産をはたいても

お金を持っている枠に入らない。

その貴重なお金は、滞在費に消えていく。

ユーロになった頃の何枚もの500ユーロ札を

私も手伝って腹に巻きつけていった。


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節約のために、ユースホステルみたなところに数泊した。

安い金額はやっぱり安い落とし穴があり、不潔だった。

マットレスの裏にはノミがいっぱいいたようで

ノミが出やすい側の私の身はいっぱい刺された。

日本人が滞在費と交換に清掃のアルバイトをしていたが

やっぱり素人なのである。履いたり拭くだけではダメなのである。

そこで交渉するにも語学力不足であった。

病院に行くにも旅行保険に入っていなかった。

ここで旅行保険の重要性を思い知る。

変なところで節約しようとすると、どこかで痛い思いと出費をする。


数泊している間に、しばらくの滞在先を見つけた。

土地勘がないのでとりあえず街まで歩いていけるアパートにした。

思い出すと、可笑しい。

トイレが離れにあったことを思い出した。

そしてサンルームみたいにとってつけたようなところが私たちの部屋で

ゴキブリがいっぱい出たことも思い出す。

中庭にグルグル回る大きな洗濯物の干し竿があった。

土地がある国らしい物干し竿である。

もう一軒建ててもおかしくないほどの庭はあまり手入されていない。

それが虫や鳥には好都合なようだ。

薄暗くなると、白い鳥がきて、妙な声で鳴いていった。

イギリス人でもヒッピー的ナチュラル系か

モッズ系都会人に分かれると思うけど

元祖イギリスのせいか、オーストラリア人も2タイプあるようだ。

ここのアパートは、ヒッピー系なるようになれタイプの

母子家庭の一室だった。

でも、人見知り親子で話した記憶はちっともない。


夫だけ語学学校に通った。

私は午後夫のノートを一緒に復習した。

日本人が多かったようだ。

一度だけ、ホームパーティに参加したことがある。

若い子ばかりで、若いと思っていた私たちよりももっともっと若かった。

同時進行に日々今後の情報収集をしていた。

どうやって出会ったか覚えていないが

クリスチャンイギリス人の無料英語講座があることを知り

高額な語学学校を一ヶ月で退散し

クリスチャンイギリス人に託すことにした。

無料だから私も通った。

そこにはアジアンやアラビアンがいっぱいいた。

ケタケタと母国語で独り言を言うフィリピン人のお母ちゃんが

優しくって、お互い言葉が今一なんだけど

それでも共通語は英語で、お母ちゃんはマーケットのことや

料理のこといろんなことを教えてくれた。

お母ちゃんの言う通りパースのマーケットで野菜を買った。

安くていろいろあって楽しくってよく通った。

マーケットは商品が剥き出しで、素材や人間味を感じた。

スーパーはその反対で、全てが包まれていて無機質だった。


原住民アボリジニがその辺にたむろいまるでホームレスのようだった。

むしろ怖いぐらいだった。

イタリアでよく見かけるRom(住居を持たない遊牧民族)のような

根拠のある生活スタイルなのに

動物と同じで都会にくると糧が簡単に手に入る空気がするのか

いろんな手で日々生き凌いでいく。

私たちが普通に認知している政治があって法律があってという

生活のルールを知らない彼ら独特の理念で生きていくのである。

話を聞くと、後から押しかけて我が物の顔で国を乗っ取った

イギリス人から原住民アボリジニ民族へ対する賠償は

生活を100%保証することのようなのである。

今でもそうなのかわからないが、うだうだグループがたむろっていて

彼らの原住民風貌で生まれてしまった人生は

ちっとも活かされてなく、残念に思う風景であった。

アボリジニだろうが元イギリス人であろうが

街にいるなら一緒に公平に生きれたらいいのになぁと

私たちは寂しく眺めていたものだった。


図書館、公民館、語学学校、いろんなところに私たちは出向いた。

人に出会いたいけど出会えない。

アルバイトをしたいけどなかなかみつからない。

私たちは、イタリアンクラブみたいなイタリアンコミュニティーのある

イタリアでいうチルコロみたいなところにも通った。

そこの掲示板にイタリア人を探す求人があった。それは・・

‹ イタリア語しかできない98歳のおばあちゃんの

話し相手と交換に部屋を無料で貸します ›

というものだった。部屋が無料とは今の私たちには願った話だ。

これもご縁かもしれない、私たちは即決した。

そのおばあちゃん一族は、シチリア人であった。

子ども等があの頃逃げるようにヨーロッパ恐慌期を去った'50年代

タイタニック号のように船で渡ってきたイタリア系移民一世である。

パースに漂流して住み着き

その後シドニーやメルボーンに移住していったそうだ。

元イタリア人が県長をやっていたりするほど

とにかく当時のイタリア人がいっぱいて活躍して裕福に暮らしている。

港にはヨーロッパ恐慌期移民時代のミュージアムがあるほどだ。

未知の国オーストラリアに何を望んで決心したのだろう。

辛いこともあっただろうが、オーストラリアに移住して

みんな幸せそうだ。

一世たちのお宅にお邪魔させていただいたが

すごーーくでーっかい豪邸だった!

一世ご夫婦も娘たちもみんなイタリア語で話していた。

一世のご主人はMuratore(レンガ大工)で

生活を繋いできたそうだ。

'90年代の東欧からのヨーロッパへの移民みたいだ。

残念ながら東欧系移民はヨーロッパでの生活はそう甘くなかった。

私たちは、このシチリア人一族の呼び寄せた長老

おばあちゃんとの生活が始まったのである。


つづく



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