大地の住人 ヴィンチの丘で

地球と体に優しいコト ~イタリアから~

フィレンツェの端っこレオナルド・ダ・ヴィンチのふるさとヴィンチの丘に在住。 大地の自然たちと向き合って地球と体に優しい様々なコト、発見・提案・発信!

タグ:Makici

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1月の半ばになると、SNSで阪神大震災の追悼が流れ
毎年毎年、当時のことを体で思い出す。

私はあの日、フィレンツェのシェアハウスに到着した日だった。
大家さんは「アナタ日本人よね?!アナタの国凄いことになってるわよ!」
と、イタリア時間ではお昼頃の国営放送で
私と大家さんと大家さんの旦那さん、確か三人で
キッチンにある小さなテレビに唖然と立ち尽くし
私は身震いがして体がさーっと冷たくなったことを
本当に体で覚えている。

日本に連絡したくても、イタリアに着いたばっかりで
言葉はもちろん土地も何も全くわからない。
スマフォなんてものは当時ないし、ネットもない。

早急に連絡するとしたら、街角の電話ボックスからだ。
確か専用のコインが必要だったような気がするし
もしくは、テレフォンカードだった。
国際電話なんてものすごく高かったし
コレクトコールだったか支払いは着信者でも家族でなければ失礼だ。

私は地球の反対側でおどおど何もできず、ただただ窓から見えた
サンタクローチェ教会の十字架を眺めるしかなかった。

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そのシェアハウスに到着する前日の夜
私は乗り継いでフィレンツェ空港に着いた。

小さい空港と灯りと、さっさと人が去っていく感じを覚えている。

ずっとオロオロと空港に長居してはいけないのか、とか
あのオレンジ色のバスは街との連結バスなのであろうと勝手に解釈して
閑散としたその市営バスに乗り込んだ。

怖いもの知らずとはこのことだと永遠に忘れられない。

空港から離れていくと、だんだん人が乗ってきた。
どこがセンターかもわからない、どこが終点かもわからない。

さっきまで人が乗り込んできていたのに
だんだんまた人の気配が少なくなっていく。

そこでようやく不安になって、横にいた乗客にイタリア語で質問した。
ラジオ講座で独学したなんちゃってイタリア語である。

「え?!とっくにセンターは過ぎたよ!今シエナ方面に向かってるよ。」
と、日本語にすんなり変換されたことをよく覚えている。
きっと「ノーセンター、アッチ、シエナ!」

一方通行の多いイタリアの街中は
向かい側に戻るバス停があるとは限らない。

もう自分がどこにいるかわからなくなってしまって
時間が夕飯時に入ったのであろう、道行く人がいない。

どうしよう。。。

出発前に泣き別れしたおばちゃんが
「困ったときにでも使いなさい」と私にくれたお金を思い出した。
生活費に使いたかったけれど、困った≪今≫に使うことにした。

なかなか現れなかった神様のように思えた通りがかりの人に
ここから一番近いホテルの場所を教えてもらった。
イタリア語で「アッチ!30プン、アルク」www

もう一人のおばちゃんの赤いチェックの布製スーツケースは
古いタイプで、真っ直ぐ進んでくれなかった。
汗をかいてジャケットを脱いで歩いた。

あとで知ると、南フィレンツェ方面のアルノ川沿いを
とぼとぼ歩いていた様子だ。
ちっともシエナなんかではなかったけれど
観光客にはフィレンツェ・シエナ・ピサなどの観光地
トスカーナキーワードを並べてくれたのであろう。

ホテルにはどうやら辿り着いた。
ホテルが開いててよかった。そんなことまでホッとした。

なんにもわからない外に出たくない。
日本から持ってきたお菓子をつまんで寝入った。

翌朝、カウンターのお兄ちゃんに小梅ちゃんの飴をあげて
タクシーを呼んでもらった。
シェアハウスまでタクシーであっという間に行ったのだった。

そのシェアハウスで、その被災を知ったのだった。

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あれから27年という月日が経ち
今出会うイタリアの子たちの中で
私がフィレンツェに降り立った27年前にはまだ
生まれてなかった子たちと出会うようになって、はっとする。

時間はどんどん過ぎて歳だって追っていることなんかわかっているけど
この27年間私はいったい何をしていたんだ
と振り返ってしまうことと
この子たちのこれからってどう生きていくんだろう
と自分と重ねたり、いや、もっと楽しいはずだ!と羨ましくなったりもする。

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ついこの間まで、我が少年は私の胸ぐらいの背丈だったのに
いつの間にか、私が思春期青少年の胸あたりの背丈にいる。。

雨降りの朝、思春期青少年を乗り継ぎのある隣村のバス停まで送った。
バス停があるBARの屋根の下で雨宿りしている青少年たちは
まるで制服のように同じような格好で
黒いスウェットパンツにパーカーの上には黒いダウンジャケット
白地に黒マークのNike Air Force 1を履いて
みんな手をポッケに突っ込んで、一列にこっちを向いている。

幼稚園の頃から一緒だったお友だちも
わる風に背伸びして尖った感をみせている。

大人からするとおかしいんだけど
いちいち私もあんなんだったのかなと笑っちゃう。

ツルツルスベスベだった肌にボツボツニキビができて
思春期だけのせいではない、食生活のせいだよといっても
それでも不規則な生活をして、反抗的な態度をみせる。

大人からするとおかしいんだけど
いちいち私もあんなんだったのかなと笑っちゃう。

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怖いもの知らずだった私はだんだん怖がりになっちゃったけど
これからの私は怖がりなのに、昨日までのことは笑えちゃう。

だから私はフィレンツェに降り立った日のことを忘れられないのだ。



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彼が夢みた地へ【前編】上 Western Australia - Perth
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ふとカレンダーを見ると、もう2月14日ではないか。

この日も私には記憶の中の日となったことがある。

バレンタインのチョコの話でもしたいところだが

人が浮きだった頃私は、病院で一人肩をすくめ途方に暮れていた。



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私には兄がいた。

しかし、両親は年子の私たちが幼少の頃離婚してしまった。

兄は父方へ、私は母方へ、男女まっぷたつに別れた。

私も兄も両親もどんな想いであったのだろう・・・。

それを探ることは今までしたことはない。

そして、父が早々にあの世にいくまで、私と兄は会うこともなかった。


兄と再会した頃はもう私たちは高校生であった。

母だって私と同じく兄と会っていなかった。

大阪で別れているのに

父と兄は東京の外れの一軒家に住んでいた。

とりあえず会おうということで、若者が好む渋谷で落ち合った。

こんなゴチャゴチャしたところで、十数年も会ってない

育ち盛りの青年がわかるのであろうか。

ところがわかるものなのである。

兄も母も二人はすぐに見つめ合っていた。

二人はお互いに手を小さく振りあっている。

すごくよく覚えている。

私だけ、キョロキョロしていた。


私はあまり話さなかった。

兄もあまり話さなかった。

母もあまり話さなかった。

それからよく覚えてないけれど

その日か別の日か、私と母は兄の家に行って

ハンバーグをつくった記憶がある。


今思うと、いやその頃だって思ったけど

18歳の青春は一軒家に一人で住んでいたのである。

ご飯はどうしていたのだろう。

生計はどうしていたのだろう。


兄は、学業を諦めて働いていた。

ちょっと水商売系の仕事のようだった。

後で写真を見て、楽しかったんだろうシーンに涙した。

人と変わらない青春を送っていたようだ。

兄は、ハンサムでどちらかというとジャニーズ系らしい。

仕事先ではとても人気があったようである。


兄が青春をしている頃、母は難病と仕事に追われていた。

正月や四季折々にある親戚一同で集まる会には

兄も我が家に来ていた。

いとこたちとすぐに溶け込んだがやはり違和感があった。

母に似て気品のある顔立ちだった。


楽しそうに青春をしている様子だったので

私は、あまり母のことで相談をすることもなく

いつまでたっても兄妹の関係はつくれなかった。

そして、母は病に負けた。

母の死の知らせに、兄は飛んできて、わんわん泣いた。

こんなに泣きじゃくる男子をはじめてみた。

狂っているのかと思った。

これからこの人はどうしていくのだろう。

きっと何も変わらないはずだ。

父が亡くなったときが一番変化があったに違いない。

私が今(あの頃)変化を受けているのと同じで。



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私と兄の関係はぎこちなく進んでいく。

私は、兄との関係の変化は何もなく、イタリアへ出発した。

すると、約一年後ぐらいに、日本から電話があった。

「すぐに帰ってこれるだろうか?」

父方の叔母からであった。

兄が白血病になったから、家族の輸血がほしいという。

私は、飛んで帰った。

兄との関係はなんだかよくわからないまま

兄と私は兄妹なんだっていうことだけの細い紐のような繋がりは

藁をも掴むようであった。

今までだっていなかったようなものだけど

兄まで私を置いていくのか。

どうしても助けたかった。

私の血で助かるぐらいだったら

どんどん吸い取ってくれという想いであった。

しかし、私の血では相性が悪く、力になることはできなかった。

たった一人の血肉なのに。


今まで輸血した副作用の話を聞いた。

とても辛い体験をしていた。

・・やはりここには書けない。

結局のところ、兄は闘病生活を引き続き送り

私は、今日明日に生活を変えられる環境ではなかったので

そのまま引き続き叔母に兄を任せた。

父はこの叔母を頼りに上京してきたようだ。

父と兄は、ずっとこの叔母と家族のように過ごしてきた様子である。

叔母は上品で親切な人で、兄を息子のように可愛がっていた。

私は、すごく安心した。

私にも親切にしてくれた。

この叔母でよかった。

私は羨ましいぐらいであった。


私が日本に再び戻ってきて間もなく兄は入院した。

何度か見舞いに行くが

ただそばにいるだけで無念な気持ちになるだけであった。

病を交代してあげたいぐらいだった。

私は黙ってそばにいた。

何を話せばいいっていうんだ。

私には無力すぎて、そこにいるだけでも辛かった。

そして兄は私に「ありがとう。」といった。

ありがとうという兄は、髪の毛がなくったって顔が腫れてたって

すごくすごく気品があった。

母似で、叔母に愛され、それでいて「ありがとう」は私の兄だった。


「ありがとう」を言ったその夜

兄までもが私をおいてあの世にいってしまった。

その日が、バレンタイデーの日だったのである。


私は息を引き取った兄とその晩同じ部屋で寝た。

私の帰る場所を失ってしまったかのように。

叔母が父の墓のあるところに連れて行ってくれた。

私は墓に執着心はないのだが

父の仏壇の中の写真を見てわんわん子どものように泣いた。

叔父叔母は困った様子だったがとまらなかった。

母が亡くなったとき兄がわんわん泣いていたことを思い出した。

私も同じだった。

父の隣に兄が並んでしまった。


兄は享年26歳だった。

きっと今だったら白血病は治せるんじゃないかと思うけど

あの頃は、試験人間のように辛い体験をし

一人あの家でインスリンのような注射を打っていたと思うと

寂し過ぎる人生だったと胸が痛い。

もっと近くにいればよかったと後悔するけれど

近くにいても心の距離がありすぎて

何もできなかったはずである。



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両親が離婚するケースで

イタリアだったら親権が半々となり

子どもが行ったり来たりの生活を強いられる。

日本の私たちのような片親のみという場合

自分の居場所はできるが、片親に会うことはない。

どちらがよいのか、それは子どもにしかわからない。

そして、離れ離れになった兄妹は

結局他人ぽく生きていくのである。

私は、イタリアのあっちいったりこっちいったりする生活よりも

性格上、ずっと同じところで自分の居場所がある方が好ましい。

だから、両親の決断に異議はない。

もともと家族はないものとして生きてきたから。



la famiglia non è che esiste, è da costruire

そしてこの作品が生まれたのである。

『家の中の族』

« 家族て在るものではなく つくるもの »

La famiglia non è che esiste, è da costruire.



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胸が騒いだあの日 un quarto di secolo fa

この日に Anniversario

かたみ i miei tesori


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後編上からのつづき。


確かケアーンズは数日間の滞在だったと記憶する。

私たちは、街にいたいのではない。

街のごちゃごちゃは違う街で充分だ。

彼も人のいないところを好んだ。

私たちは人のいない海へ向かった。

でも今調べるとケアーンズから車で1時間のところだ。

きっとレンタカーを借りたときに発見したのかもしれない。

それか本屋の立ち読みでチェックしたのかもしれない。

それかそれか、インフォメーションオフィスかな。

当時は、便利なネットもなければ、グーグルなんてものはなかった。

歩くか紙か人の声しか情報はない。

ついこの間までそれでも私たちはやってきたのだから

本当は、このままでもやっていけたとは思うが

一度便利さの味をしめると

ついこの間までのあの頃のインスピレーションを奮い起こしても

なかなかに鈍くなったのか、もしくはそれが正常なのに

便利のスピードに我々のもつ勘が鈍く感じるのか。



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しばらくの拠点を置いた先はFour Mile Beachという

果てしなく続いているようなビーチがある

徒歩数分のところにアパートを借りた。

リゾート地でもなければ観光地でもない

ただただリラックスしにくるようなところだった。

水平線の手前にはグレートバリアリーフが海底にある。

遠浅で静かに波が立ち静かに生命を感じるところだった。

ビーチ入り口には少し人はいるがイタリアに比べたらちっともいない。

こんなきれいなところに人がいないなんて・・。

彼は、毎朝裸足でジョギングをした。

私は、ひたすら歩いた。

そのビーチ入り口辺りに岩場があって

大金持ちの素敵なモダーンな別荘があった。

一般市民も近くまで登れた。

そこから眺めるFourMileBeachの景色は素晴らしかった。

ある日、いつものようにビーチをかなり行った先の

ヤシの実を割ってみようということになった。

そうだ、そうだ、割ってみよう!

意外と硬い。そう簡単には割れないじゃないか。

サルの方が頭が良さそうに思えた。

肉厚の割れた大きな実の中に、よく見かける大きな種があった。

また割らなければ・・。

割ってこぼれてちょっとしか飲めなかったココナッツ。

甘い()思い出は幸せと同じでほんの一瞬なんだ!



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村には、若者向けに洒落たパブやバーが立ち並ぶ通りがある。

そこがメイン通りになるが

まぁ歩くだけで小洒落た気分にさせてくれる。

ここには大きなコウモリがフツーに飛び回っていた。

イメージ通り逆さにぶら下がってるw

黒いマントをキュッと閉じて。

こっちみてるー!



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7月のオーストラリアでいう冬場だからシーズンオフだったようだ。

しかしここは一年中夏。

シーズンオフの短期アパートは観光客用で

リッチにもアパートの中庭にはプールがついていた。

シーズンオフにはプールはいらない。

誰もいない海に行けばいい。

誰もいないビーチでゴロゴロすればいい。

スリリングな旅というより

もうこの先海沿い暮らしはなかなかできないだろうと

敢えて時間を青い海と波の音とサラサラの砂に引き換えた。

そう、あれからこんな暮らしはしたことないし

むしろ夢のような時間を体験したその妄想となった過去に留めたい。



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毎日歩く・走るビーチで、毎日水平線に浮かぶ島を眺めた。

あそこの無人島に行ってみたいね。

私たちは行くことにした。

ツアーのように船が用意され

シュノーケリングキットも貸し出してくれた。

一応毎日観光客はいるようだ。

広大なビーチのせいで人は少なく見えたのに。

彼は泳げないけど

息ができるシュノーケリングはじっと浮いてれば海の中は見れる。

私はピンさえあれば海を漕ぐ(足だけで泳ぐ)ことができる。

彼をひっぱりシュノーケリングツアーをしてあげた。

感動的だった。

海中にはカラフルな魚がいっぱいいた。

熱帯魚屋さんの大きな水槽を見ているようだ。

魚たちは平然と泳いでいて私たちには眼中にない!

自然の結晶ウネウネ珊瑚は見事だし

地上では見ることのできない姿がここにはある。

グレートバリアリーフでシュノーケリング体験は価値があった。

帰りの時間になるまで私たちはずーっと空を背に海に浮いていた。



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島ってどうしてこんなに魅了するのだろう。

神秘的で原始的で。

船でしか行けないからとても遠くに感じ

手が簡単に届かないこの困難さがさらに惹きつけるのかもしれない。

だから、また別の無人島に行った。

今度はインスタントの水中カメラを持参した。

バシャバシャ撮ったけどきちんと撮れているのかな。

デジタル化した現代、フィルム時代の不便さが嘘のよう。

いちいちプリントするから写真と言えるものはフイルム時代さ。

しかし、出来上がってくる写真をウズウズ待って

半分以上今一ってことは常であった。

なんだかボヤボヤな色で写ってて、ハキハキしないピントで

あの感動的な海中は、結局のところ脳裏だけに留まることとなった。



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私たちは、ときどきやっている野外マーケットを楽しみに出向いた。

ローカル食品はもちろん、工芸品も並んでいて

見てるだけでも楽しかった。

そこに・・オーストラリアのどこにでも物産として売られているが

原住民アボリジニ伝統の楽器Didgeridooが売られていた。

ストリートでモダーンなアボリジニが演奏していたり

いろんなところで目にして耳にしていて

その原始的な作り方と魅惑的な音と

想像力を駆り立てるリズムに私たちは引き込まれていった。

彼はJambèを叩くのが趣味だったし

私も小さな楽器を集めるのが好きだったこともあって

悩んだ挙げ句、一本思い出にイタリアへ持って帰ることにした。

カラーはシンプルに絵柄がジリジリと焦がされた黒色で。

屋台の主に音の出し方を教えてもらった。

ブーっていう音だけは私にも今だってできる!

リズムにならないけどw

あの頃、イタリアの地でブレーメンの音楽隊ならぬ

ヴィンチの音楽隊でも想像していたのであろうか。

ある年の民族的な楽器好き仲間が集った大晦日

ヴィンチの宴は、ドンドコブーブーピーヒョロ賑やかに

年を越したことをよく覚えている。



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そして、牧場の多いウエスタンスタイルのオーストラリアでは

カーボウイハットを必ず一人一個は

持っているんじゃないかというくらいみんな被っている。

仕事人も通行人も。

だから、彼は紳士風のを。

私はビーチ用に前が編み編みになてて風通しが良いものを。

オーストラリアにいればなんてことない帽子だが

イタリアでカーボウイハットを被ると

なんかおかしい・・ということに気がついた。

着物をイタリアで着る感覚である。

ヴィンチの我が菜園で鍬くわを振り回しながら土を耕している時

農民は、私の帽子をじーっと見つめてぷっと微笑んでいくw

うぅ、やっぱり場違いなのかっ。



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こうしてオーストラリアの旅は幕を閉じていくのだが

この冬向こうは夏、森林火事の大惨事で

私は・・きっと彼も静かに、彼が夢みた地の足跡を追っていた

・・に違いない。

あのファームは大丈夫なのか。あのコアラは大丈夫なのか。

レインフォーレストまで燃え尽きてしまうのか。

アボリジニたちの大地生活は大丈夫なのか。

火災の裏には、野焼きや放火、火遊びなど

結局人為で始まり、温暖化も煽って旱魃と重なったこの大惨事。

SNSで流れてくる逃げ場のなくなった動物たちは

幼い子どもの悲鳴のようで、目頭が熱くなり画面がぼやけた。



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私は、原住民がいる土地には暮らさないであろう。

そこで暮らすのであれば彼らの様式に従うべきだとも思うし

それは、イタリアに暮らすことだってイタリア様式に文句は言えない。

移住者が、各々がもつ文化や伝統を上手に表現していくべきだ

と思うし、住人がグローバル的思考で自由な発想タイプだと

意気投合できるが、頑固な伝統スタイルタイプだと

なかなかイタリアだって親交を深められない。

原住民の生活スタイルは、個では生きられない。社会なんだ。

田舎に暮らして少しでもエコに節約しながら生きていこうとすると

想像以上に大変で、街の住人ほど娯楽はもてない。

そんな暮らしを体験すると、原住民のいるオーストラリアで

分けて過ごすことはできないと私は考える。

世の中が、自然へそして人種、伝統

様々なことに倫理的に尊重しながら共存していけたらと想った。


オーストラリア旅行記、完。


・ あとがき ・


伊着25周年ということもあって、今までを振り返った中で

私の意志で行ったわけではないこの長かった国を超えての旅は

イタリアに暮らす決心ともなった旅でもある。

あの頃未来だった今の自分は

過去となった未来を想像していた自分を想いながら書いている。

今までのたくさんの自分と出会えて新鮮だった。

書くという行為をしないと

きっとそのまま心に残っただけで、時は流れていくであろう。

また思い起こしてみたい。



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彼が夢みた地へ【前編】上 Western Australia - Perth

彼が夢みた地へ【前編】下 Western Australia - Camping

彼が夢みた地へ【後編】上 Queensland - Rainforest



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前編下からのつづき。


私たちは、エアーズロックを下にパースからケアーンズまで

飛行機で移動した。

あそこにも行きたかった・・ここにも行きたかった。

雲のない宙に浮かぶ飛行機からの眺めは最高であった。

オーストラリアのドローン的ランドスケープはただものではない。

描く地面は、斬新的でかつ原始的で、スピリチュアルでミステリアス。

オーストラリアのランドスケープ特集のすんごい分厚い写真集を

買いたかった・・。でも重くなるから我慢した。

原住民アボリジニが描くデザインは、大地の柄であろう。

それにしてもどうして上からの図を描けたのであろう。

彼らのスピリチュアル透視や生存の知恵は

絶対に絶対に絶対に伝授していくべきだ。

生活を保証してくれるのは有り難いが

彼らが求めることは便利とか発展ではないような気がする。

きっと彼らの本心は

「そっとしておいてくれ」

なんじゃないかと静かに思った。



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彼は、ときどきイタリアにいるお母さんに電話をした。

当時はまだまだWhatsApp(日本でいうLINE)なんぞない。

10ドルとか定額の国際電話カードを挿入して電話をした。

しかも公衆の電話ボックスからである。

私もいちいちそばにいて気だけは遠い家族へ寄り添っていた。

電話の向こうにいるお母さんはきっと

「わざわざありがとね」といった感じであろう。

内容はいたって安否の確認みたいなものである。

ただただ声を聞くという行為は、ただただ安心するものなのである。

ケアーンズ入りした頃は

オーストラリア滞在4ヶ月目に突入していた。

そろそろノスタルジーに駆られる頃である。

彼のお父さんは年金生活に入りのんびりと羊を飼いならしていた。

一番下の弟とときどきお姉ちゃんが出戻ってくる感じで

まだまだ賑やかにお母さんはお母さん業を熟していた。

気ままに生活している夫と息子たちの帰りを待って

食事の支度をする生活である。

お母さんの役割は帰りを待つことだけのように

至って放任主義で、しかし気ままな家族にイライラしていた。

彼は、移住への意志や旅の目的、人生スタイルなど

時間が経つごとに、見極めていったような気がする。

と、何年も経った今そう確信する。

夢みた国で考える時間を持てたことは本当に良かったことだと思う。

まず後悔しない。

動いてみないとやってみないとわからないことはいっぱいある。

それは海外へ行くことだけではない。

身近なことでもなんでもそうだ。

彼は、滞在すると決めた残り2ヶ月を満喫することにした。

そして、オーストラリア移住は諦め母国イタリアへ戻り

近所でお母さんのフォローをすることに決心したのである。

それでいい。

私だって、母が生きていたら

イタリアに来ることなんて考えもしなかったんだから。

彼と出会ってオーストラリアに移住なんてましてや。



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ケアーンズにはそんなにいなかったように記憶する。

なにしろあまり写真がないから

ボワァっとはっきりしない断片と微かな記憶を

薄っすらと浮かぶイメージを辿るように繋いでいる。

それでも結構アパートの中とか構図を覚えていたり、通りのバーや

木にぶら下がっていた大きいコウモリなんかはよく覚えている。



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パースでのキャンピングカーの楽しいひとときから抜けず

ケアーンズでもレンタカーを借りて少し遠出をした。

クイーンズランドは、ウエスタンオーストラリアと違って

熱帯雨林気候であった。

だから、緑が鬱蒼としていて

全ての呼吸が空気となった生きた湿りと温もりが特徴的であった。

国立公園デインツリーレインフォーレストでは

見たことのない植物をはじめて見た。

まるで生き物のように動き出しそうである。

地面から生まれてくる奇妙な植物は、昔っからの生命で

堂々と意味ありげに生まれ、私は恐れ入った!という感じであった。

とにかく大きくみずみずしく水分で硬直したように聳え立っている。

よそ者である私たちは

共存しあっているそこにいる生き物たちを羨ましく思った。

彼らは植物も動物も虫も微生物も仲間のようにみえた。

一種の自然社会・・コミュニティーを感じるような雰囲気で

彼らの世界があり、人間の立ち入りを拒んでいるようだった。

そのくらい恐縮したレインフォーレストである。

そんな風に体感しても、レインフォーレストに来てよかった。

太古のシダは感動的であった。



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ワニがたくさんいるところに行った。

そして、ワニを食べた。

オーストラリアで、ヘビを食べた。

カンガルーも食べた。

食べれるものは何でも食べた。

食べ続けることはしないけど

原住民が食べるものは食べたいと思った。

オーストラリアだけではない、今まで様々な肉を試食したと思う。

ウマだって、ロバだって、カエルだって、カタツムリだって

イノシシ、シカ、ノウサギ、ヤマアラシ大、キジ、ホロホロチョウ

こうやってあげてみると、私が原住民のようで私が狩人のようだ。

野生のようで野獣のようだw

今では、野草を摘み果実をかじりそして保存する。

原始人とは・・と考えたことがあるけれど

私の人生それに似た生活スタイルもあってそうであるw

あぁ、だから田舎を選ぶのか。

衣食住の真髄を永遠に追求しているのかもしれない。


後編下につづく



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彼が夢みた地へ【前編】上 Western Australia - Perth

彼が夢みた地へ【前編】下 Western Australia - Camping

幸せの種 il mare d'autunno



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前編上からのつづき。


98歳のおばあちゃんは、元気だった。しっかりしていた。

朝、早く起きて、魔法の薬のようにニンニクを一片えいっと潰して

水と一緒に飲み込むのである!wow

散歩だってするし、洗濯だってするし、料理だってするし

生ゴミは、外の小さな庭の小さな菜園のあちこちに

鍬で軽く穴を掘り捨てる。いい方法だ。

一週間に一度お掃除をしてくれるシルバーアルバイトがやってくる。

だから私たちは日常の些細な助っ人ぐらいで自由な生活ができた。

そのおばあちゃんチから、クリスチャン無料英語講座に通った。

一世の元レンガ大工は、私たちになんとか仕事をと考えてくれるが

私たちの欠点は、労働ビザがないことであった。

イタリアのようにビザなし移民が会社に応募して雇ってくれたら

労働契約を持って届けに行くパターンではなくその反対で

労働ビザを既に取得している人を雇うというパターンが

主流であった。というわけで本も子もない。

オーストラリアにはワーキングホリデーという制度がある。

とてもいい制度だが、年齢に制限があることがネックであった。

ワーホリの取得は確か出発前に用意することだったように記憶する。

私たちが仕事や生活に安定していれば

おばあちゃんのところで家賃の節約ができたが

私たちのオーストラリア滞在の目的を

変えていかなければならない状況が、こう住み始めて

移民局なんかにも何度か足を運ぶごとにわかってきた。

コネクションもなくどうしても働けないなら、旅をすることにした。


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おばあちゃんはさすがイタリア人

トマト料理が大好きだったし上手だった。

ポルペッタ(肉団子のトマトソース煮)は週一ペースだったように思う

私たちが今ピッツァを週一で食べるように。

そして、切らすとすぐに作っていたフレッシュペペロンチーニの

保存可能激辛ソースをよくつくっていた。

私たちも真似してつくった。激ウマだった。

この保存ソースを、どの料理にもちょっと加えて食す。

それを加えるだけで、食欲が増すのである。

おばあちゃんの長生きの秘訣は、朝のニンニクと

この激辛ペペロンチーニソースだということを

私たちは人生のノートにメモった。


おばあちゃん一族と家族のように心配し合うようになった。

生活をしているカップルではなく、旅人であった私たちは

おばあちゃんのところを基点に、小旅行を始めた。

その近い将来には私たちは去ることを前提に。


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私たちは、キャンピングカーを5日間レンタルした。

オーストラリアでは、中古のキャンピングカーや改造バンの

プライベート広告がいっぱい出回っていた。

家賃を節約して、キャンピングカーで大きいオーストラリアを

車泊して旅していくのである。

そんな滞在スタイルをあとで知ったからもうお金も時間もなく

ミニ旅行で我慢することにした。

きっと私たちには合っていた滞在&旅スタイルかもしれない。

いつの日かまた大地を旅するときは

キャンピングカーをすぐにでもレンタルしたい。


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パース近郊はイタリアみたいだった。

ブドウ畑が広がりイタリアのような農作物が多かったような気がする。

気候が似ていたのであろう。

移民したイタリア人が自分たちの知識を

ここオーストラリアに植え付けていったはずだ。

こうやってオーストラリアが産出もできて発展もして

彼ら移民たちの力はオーストラリアにとって

なくてはならないかけがえのない人手だったのだ。

ただイタリアとどこが違うって、丘のない平野なイタリアが

オーストラリア南西部のパース近郊なのである。

誰もいない道、ときどき動物注意の標識だけが

大自然への道標だった。

あっ、あそこにカンガルーの群れがのんびりしてるーっ!

わー、走った。

(いや、歩いた感じ?遅いけど跳ねていたw)


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私たちは、ひとまずキャラバンパークに向かった。

オーストラリアにいる広大な自然の中にいる動物たちを

大集合させたファームでもあった。

私たちのところに怖くなるほど人に慣れた動物たちがやってきた。

そこで私たちはオーストラリアにしかいない

コアラちゃんを抱っこすることができた。

爪が太く鋭くちょっと怖かった。

温かかった。

眠そうだったw

このコアラちゃんを抱っこするだけで、もうオーストラリア万歳だった。


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モコモコの羊ちゃんもいっぱいいた。

毛糸に使われちゃうみたいでスキンヘッドならぬスキンボディで

きょとんとこちらを向いているつぶらな瞳が愛おしかった。

お肉にもされちゃうようで、そこのファームでBBQができた。

そこでラム肉を焼くことにした。

この広大な土地に二人だけのBBQはなんだか寂しい。

友たちとワイワイシーンのノスタルジーに駆られた。

ワインは、オーストラリアの特徴に感じたどれも似た味のワインを

大自然の中で広大な土地を歩くジビエのような家畜と共に嗜めた。


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夜、大きな木の下にキャンピングカーを駐車して、寝る準備をした。

ソファーとダイニングテーブルがベッドに変身する。

床につくと急に静寂となるのが不思議だ。

静寂になって自分が無になった途端

小さな音がよく聞こえだすのも不思議である。

きっと暗闇になってからずっと続いている音なんだろう。

小動物が走り回る音がする。

外に出ると、リスのようなサルのようなイタチのような

速いタッチの動物が、止まっては走り走っては止まり

彼らの一日が始まったようであった。やれやれ。


見渡す限り草原の平野は、私たちがちっぽけに感じるどころか

動物たちが大集合しているでっかいファームだって小さく見えた。

こんな広大な大自然に立つと

地球ににポツンとのっかているような居させてもらっているような

自然との共存どころか自然に従わなくてはいけない

自由な奴隷のようであった。

そんなことを想いながら朝のカップチーノは最高だった。


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パースは、イタリアコミュニティーとイタリア気候風大平原

地方移民が築き上げたゆるいアーバンな街は

便利で住みやすい土地だった。

パースを離れ、私たちはクイーンズランド方面へ向かった。

残念そうに見送ってくれたシチリア人一家。

ごめんなさい

生まれ変わったときにまた出直してお会いしたいです。


後編上へつづく。



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